戦前・日本初 特別急行1・2列車「富士」
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「富士 (列車)」の記事における「戦前・日本初 特別急行1・2列車「富士」」の解説
1912年(明治45年)6月15日:新橋(駅の位置的には汐留に相当) - 下関間に、一・二等車のみで編成された日本初の特別急行列車として1・2列車が運行開始。最後尾には一等展望車を連結。運行当時より1・2列車の終着駅であった下関市から日本領朝鮮の釜山へ鉄道省による鉄道連絡船の関釜航路が運航されており、そこから先の朝鮮総督府鉄道と連絡し、中華民国内とシベリア鉄道を経由して、パリ(フランス)からロンドン(イギリス)に至るまでの国際連絡運輸が行われていた。1・2列車はその一翼を担うことにもなるため日本の威信をかけ、当時の最高水準ともいえる設備とサービスを有していた。ソファーや書棚が置かれ、一角には貴賓・高官用の特別室を設けた展望車を連結したほか他の当時の多くの列車の食堂車が「和食堂車」であったのに対して1・2列車は高貴な「洋食堂車」を連結していたことなどがその例といえる。 1914年(大正3年)12月20日:東京駅の開業に伴い、1・2列車は東京駅発着に変更。 1926年(大正15年)9月23日:海田市駅付近の豪雨に伴う土砂崩壊により1列車が脱線転覆するいわゆる山陽本線特急列車脱線事故が発生。多数の死傷者を出したことから強度に優れる客車の鋼製化を促す契機となった。 1927年(昭和2年)8月1日:1・2列車は山陽本線内を夜間に通過する関係から一等展望車の連結区間が東京 - 神戸間に短縮され、神戸駅で切り離された一等展望車は山陽本線内を昼間に通過する急行7・8列車の京都 - 下関間で使用することとなった。 1929年(昭和4年)9月15日:特別急行列車に列車愛称を鉄道省が公募により初めて命名。1・2列車を「富士」とした。この当時も1・2列車は一・二等車のみの編成であった。最後尾の一等展望車には同年11月からテールマークが取り付けられている。 また、同年から1930年にかけて、1926年の脱線事故に鑑み「富士」用の鋼製客車が製造され、順次これまで使用されてきた木造客車を置き換える。また、このとき作られた一等展望車は同時期に新築した百貨店の白木屋の内装デザインに似ていることにちなんで「白木屋式」と呼ばれるスマートな洋式内装のものと漆塗りや金メッキ金具を用いた「桃山式」と呼ばれる豪華な装飾が施されたものの2種類が存在した。 1930年(昭和5年)4月:鋼製客車への置き換えに伴い客車の運用が変更され、「富士」の一等展望車は再び東京 - 下関間の全区間で連結されるようになった。 10月1日:「燕」運行開始に伴うダイヤ改正で、「富士」も東海道本線内を中心にスピードアップが行われる。 1934年(昭和9年)12月1日:丹那トンネル開通に伴うダイヤ改正で、「富士」にも三等車が連結される。 1935年(昭和10年)7月:「富士」に連結していた一等寝台車(現行ではA寝台車に相当する)マイネ37130号車にシャワー室を設置。ただし同車のみ1両しか改造されなかったため、4日に1本のみであった。使用は一・二等客に限られ、使用する際は車掌から30銭の「浴券」を購入した。しかし4日に1本という運用頻度から利用が低迷し、同年10月ごろには休止となっている。 1939年(昭和14年)11月:満州国との輸送量増大による大陸方面への輸送需要が増大したため「富士」は京都 - 下関間で二等寝台車・三等寝台車各1両の増結を開始。 1941年(昭和16年)7月:日中戦争の激化による輸送力増強のため三等寝台車の使用を中止。 1942年(昭和17年)11月15日:関門トンネル開通に伴い、「富士」の運行区間を東京 - 長崎間に拡大。また上海航路の客船が到着する日には上り列車のみ、それとの連絡を図るため港に隣接した長崎港駅を発着駅とした。 1943年(昭和18年)7月1日:それまでの特急列車を「第一種急行」、急行列車を「第二種急行」とする。「特急列車」の呼称は、制度上はここで消滅している。 10月1日:運行区間を、東京 - 博多間に縮小。 1944年(昭和19年)4月1日:大東亜戦争(太平洋戦争)の激化により運行中止。
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