弁証法的な理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:36 UTC 版)
今現在、民主主義に対抗しうるイデオロギーが存在しないからと言って、未来永劫民主体制が続くと考えるのは短絡的であり、突然、民主主義を超えるイデオロギーを提唱する天才思想家が出現する場合もありえるという批判もあるが、弁証法的な論理からいえばその可能性はきわめて低い。弁証法とはすべては諸事象の集合体ではなく諸過程の集合体だと考える、時間軸を導入した4次元的な思考法である。無から有は生まれず、新しいものは必ず古いものの複雑な複合体であるに過ぎない。新しい完成品には、必ず過去にその源流となる原型、雛形、試作品があると考えられている。よって、今現在、民主主義を超える可能性を感じさせるイデオロギーの原型、雛形、試作品すら存在しないということは、もはや永遠に民主主義を超えるイデオロギーは出現しないということである。過去、現在に存在しないものは、未来にも存在しないのだ。たとえば、世界中の技術者が飛行機の開発に尽力したのは、鳥や模型飛行機という飛行機の原型がすでに存在し、原理的に空を飛ぶことは不可能ではないと知っていたからである。逆に、一部のマッドサイエンティスト以外、誰もタイムマシーンの発明に本気で取り組まないのは、時間移動と思われる現象が過去に一件も発見されず、タイムマシーンの原型と呼べる機械も存在しないので、科学者は弁証法的にタイムマシーンの開発は半永久的に不可能だと考えているからである。たとえ本当に天才思想家が出現したとしても、前例がない思想であるがゆえに周囲の人間は誰も理解できず、天才思想家は哀れな変人として一生を終えるはめになってしまう。 弁証法的思考によれば、テーゼ(一意見)とそれに対するアンチテーゼ(批判的代案)との矛盾が原動力となって、アウフヘーベン(革命や維新のような、より高次なレベルへの移行)が起き、ジンテーゼ(より高次でハイレベルな改良案)が生まれるのであり、アンチテーゼが存在しなければアウフヘーベンは起きない。アンチテーゼが存在しない以上、民主体制をアウフヘーベンする矛盾、原動力、理由、必要性、モチベーションが存在しないのである。 弁証法的闘争とは、イメージでいえばトーナメント方式の戦いに似ている。強豪チームも弱小チームも玉石混交で初戦からトーナメントに参加し、弱小チームは一回戦、二回戦の序盤で敗退して歴史のトーナメントから姿を消す。強豪チームも経験をつむことによって、より強く成長し、トーナメントは終盤になればなるほどよりハイレベルな戦いになってくる。世界史上に起こったすべての戦争や内乱、革命、政争は、このトーナメント戦の一場面である。優勝チームを除いて、すべてのチームが敗退して脱落したら、歴史のトーナメントは終了する。例えていえばアメリカ自由民主主義、日本軍国主義、ソ連共産主義、ナチスドイツらを主軸として行われた第2次大戦は、歴史のトーナメント戦のベスト4による準決勝であり、そのなかで日本軍国主義とナチスドイツが敗退し、アメリカ自由民主主義とソ連共産主義が決勝戦に進出したという流れになる。世界を二分した米ソ冷戦は、文字通り、歴史の決勝戦と呼ぶにふさわしい戦いだった。 仏教哲学の諸行無常論とヘーゲルの弁証法の大きな違いは、保存の概念の有無である。弁証法のアウフヘーベンには、揚げる、とどめる(保存する)、捨てるの三つの意味がある。そのため、日本語では止揚、あるいは揚棄という造語が訳語として当てられている。仏教哲学はこの保存という概念を認めることができなかった。認めてしまえば永遠の存在を認めることになるからである。永遠など存在せず、永遠を求める気持ちが執着や我執、苦悩を生むのでそれを捨てるべきだというのが仏教の教えの根幹だからである。確かに万物は変化していく。しかし、因果律や質量保存法則、エネルギー保存法則がある以上、過去から未来に受け継がれ、保存されるものも必ず存在するはずである。トーナメント方式の戦いを見れば、次から次へと参加チームが脱落していくので、最後はすべてのチームが例外なく脱落、敗退していくように見える。しかし、よく見れば、脱落していくチームのなかに、少数ながら生き残って勝ち上がっていくチームも存在する。正確にはすべてのチームが脱落するのではなく、たった一つのチームだけが生き残るのである。ヘーゲルがこの保存という概念、永遠の存在を認めることができたのは、ヘーゲルの思想の根幹に、絶対的で普遍的で永遠なる唯一神の存在を説くキリスト教思想があったからである。ヘーゲル哲学とは、キリスト教神学を哲学として理論化し、完成させたものである。それがゆえに、ヘーゲルはドイツ観念論哲学、近代ヨーロッパ哲学の完成者と評価されている。ヘーゲル哲学の歴史の終わりとは、キリスト教神学の最後の審判(善と悪の最終決着)に相応する概念である。ヘーゲルにとって弁証法とはキリスト教神学を矛盾なく合理的に説明するための有効な概念、手段、ツールだった。ただ、どちらかが間違っているというわけではなく、あくまで仏教哲学は人間個人の生き方を説く個人哲学であり、ヘーゲルは社会全体の発展性を考える社会哲学だというカテゴリーの違いも留意しなくてはならない。数十年単位のミクロ的な個人史においては仏教哲学が有効であり、数千年単位のマクロ的な社会史、人類史においてはヘーゲル哲学が有効なのである。歴史のトーナメントをすべて見通すには、一個人の人生は短すぎるのである。 フクヤマが歴史を単純にイデオロギー闘争史と呼ぶのではなく、「弁証法的な」イデオロギー闘争史と付け加えているのは、このことを踏まえている。
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