弁証術(ディアレクティケー)と弁論術(レートリケー)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 23:04 UTC 版)
「弁論術 (アリストテレス)」の記事における「弁証術(ディアレクティケー)と弁論術(レートリケー)」の解説
アリストテレスの師であるプラトンが、弁論術(レートリケー)に対して批判的な見解を持っていたことはよく知られており、それは彼の著作である『ゴルギアス』や『パイドロス』等で、明確に述べられている。 『ゴルギアス』において、プラトンは、弁論術(レートリケー)は本来「人々の魂(知見)を善くする(ことで国家・社会全体を善くする)」ことを目的としているべき「政治術」の一部門である「司法・裁判の術」に寄生しているものであり、対象に対する知識・技術を持ち合わせないまま、人々の短絡的な「快」につけ込んで無知な人々を釣り、真実や魂を善くすることから彼らを遠ざけ、その目を覆い隠してしまうだけのものであり、ただの「熟練の業」に過ぎず、醜く劣悪なもので、技術(テクネー)と呼べるようなものではなく、「化粧法」「料理法」「ソフィストの術(詭弁術/論争術)」と並んで「迎合 (追従/へつらい)」(コラケイア)と呼ぶべきものだとして批判している。 また、『パイドロス』においても、プラトンは、弁論術(レートリケー)が、対象についての真実を知らないまま、相手の魂を事物の真相から逸らして誘導していくことを目的とし、相手がどう考えるかばかりを追求していくだけの、「言論(ロゴス)の技術(テクネー)」と呼ぶに値しないものであると批判する。一方、それとは対照的に、定義・綜合・分析(分割)を備え、雑多な情報から対象のただ1つの本質的な相を導き出していける弁証術(弁証法、問答法、ディアレクティケー)こそが、真に「言論(ロゴス)の技術(テクネー)」と呼ぶに値するものであると述べている。彼が対話篇で描く「弁論家・ソフィストたちを論破するソクラテス」というモチーフは、全てその「小手先の弁論術(レートリケー)に対する弁証術(ディアレクティケー)の優位」を表現するためのものである。 さらに、プラトンは、その弁証術(ディアレクティケー)を通じた真実の把握は、「並々ならぬ労苦」を伴うものであり、それがたかだか人間を説得するという「矮小な目的」の下になされるべきではなく、「神々の御心にかなうように」、すなわち「純粋に真実を恋い慕い、より善い魂を成就する」という「大きな目的」の下になされるべきであると説き、弁論術(レートリケー)という営みそのものを拒絶・破棄している。これが彼の考えた「哲学者」(愛知者、ピロソポス)像である。 (ただし、「次善の国制」を模索する現実主義的な性格が強まる後期の作品である『政治家』においては、プラトンは「真の政治家(王者)の統治」に協力して、「正義を実行」するように「国民を説得・指導」する限りにおいて、という条件付きで、「弁論術」を、「戦争術」「裁判術」と並ぶ国家運営上の重要技術として認定し、言及している。) それに対して、アリストテレスは、プラトンのように「弁論術(レートリケー)そのものを拒絶・破棄する」ところまではいかず、弁論術(レートリケー)を弁証術(ディアレクティケー)と相通ずる技術(テクネー)として認めている。ただし、基本的な構えとしては、上記のプラトンの考えを継承しており、従来の印象操作的・扇情的な部分ばかりが強調されてきた指南書を批判しつつ、それらとは一線を画し、説得推論(省略三段論法、エンテュメーマ)を技術の中心に据え、バランスがとれた形で弁論術(レートリケー)に関わる全体像を描き出し、秩序立てようと努めている。
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