工業都市への成長(13世紀から19世紀)
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「イーザーローン」の記事における「工業都市への成長(13世紀から19世紀)」の解説
13世紀の木柵/土塁で囲まれていたのは、現在の内市街のわずかな部分だけであった。1300年頃に北門を含む土塁の北側と東側が取り壊され、北と東へ拡張されて、一部は二重の石壁に改築された。これにより防衛される都市の面積は4倍となった。壁の跡は現在もマリエン教会付近で見ることができる。ミューレントーア(直訳: 水車門)やキルヒトーア(直訳: 教会門)の他に、ヴェスタートーア(直訳: 西門)、ウナアー・トーア(直訳: ウナ門)、ヴェルミングザー・トーア(直訳: ヴェルミングゼン門)が設けられた。マリエン教会(オーベルステ・シュタットキルヒェ=最高位の市教会)の近くに領主の城塞や市民の家屋が建設された。街の北部にはユダヤ人街があった。 伯は13世紀からこの街を行政管理に適合するよう改造していった。1309年の文書に独自の弁護士と市長を持つ防衛力のある都市と記述されており、1326年に初めて市議会について記録されている。イーザーローンは、首都で宮廷所在地のハムおよびカーメン、リューネン(ドイツ語版、英語版)、ウナ(ドイツ語版、英語版)、シュヴェルテ(ドイツ語版、英語版)に並ぶマルク伯領の主要6都市の1つとなった。マルク伯は1609年まで領主であり続けた。マルク伯領は1392年からクレーフェ伯領と同君連合を結んだ。1447年にクレーフェ伯は公(クレーフェ=マルク公)に昇格し、この街は1521年からマルク伯も参加したユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国に属した。 ユーリヒ=クレーフェ継承戦争(1609年 - 1614年)以後マルク伯領はブランデンブルク選帝侯領に移され、これ以後はブランデンブルク=プロイセン、後のプロイセン王国(1701年以後)に属した。 イーザーローンは、元々約 10 ヘクタール程度の土地で、中世には小都市に位置づけられていた。この街はまず要塞的性格と比較的脆弱な交通環境によって特徴付けられる。パンクラティウス教会周辺のアルト=イーザーローンと、マリエン教会(現在のオーベルステ・シュタットキルヒェ)近くの防衛都市および城塞とは、19世紀初めまで分離された別の街であった。 イーザーローンの発展は、工業の発展と緊密に関係している。中世後期の金属加工業の黎明期には周囲を囲む山の斜面から産出した鉄鉱石が薪の上で、後には炉の中で熔解されていた。薪は周囲の森から供給された。14世紀に初めて水力で駆動する鍛造所がグリューナー・タールやバールバッハに建造された。高品質のオーゼムント鉄(ドイツ語版、英語版)が生産された。内市街付近では15世紀から19世紀まで亜鉛を含む菱亜鉛鉱が採掘されていた。 中世から近世に災厄に見舞われた多くの都市と同じように、イーザーローンでも多くの都市火災が起こった。街はそのたびにゆっくりと復興した。少なくとも9回の大火が伝えられている。1448年、1510年、1530年、1616年、1635年、1665年、1677年、1685年、1712年である。大火の原因は、木組みの家屋が密集していたことの他に、火を使って作業する金属加工業にも起因した。この産業は徐々に郊外に移転し、内市街には増加した商人、職人、小さな企業が定住するようになった。 18世紀になるとイーザーローンはプロイセンで最も重要な工業都市の1つとなった。1690年に初めて針が生産され、時代とともに針および針金製造が最も重要な工業分野となっていった。ブロンズや黄銅の製品もこの街の重要な商品に数えられる。イーザーローンのシガレットケースは特産品の1つであった。大きな金属加工業者は市の周縁部で増えていった。一歩王、内市街には多くの商人が住んだ。イーザーローンの商人は、ヨーロッパ全土の、さらにはヨーロッパ以外の都市と交易を行った。 1800年頃にイーザーローン地域は、針金、針、黄銅、ブロンズ、絹織物といった産業が盛んで、南に隣接するアルテナやリューデンシャイト周辺地域とともに世界最大級の工業地域を形成していた。19世紀遅くまでイーザーローンはヴェストファーレン最大の工業都市であり、プロイセンで最も裕福な商業都市の1つであった。中世には、武具生産が大きな重要性を持っていた。たとえば、イーザーローンで作られた鎖帷子がロンドン塔に存在する。イーザーローンの針は世界的な輸出品であった。 経済は、プロイセンが関わった多くの戦争によって、一時的な輸出減少というネガティブな影響を被った。19世紀初めのフランスによる占領や、これに起因する大陸封鎖も経済発展や都市の発展を阻害した。1808年から1813年までイーザーローンはベルク大公国のルール県に属した。その後再びプロイセン領となり、ヴェストファーレン州アルンスベルク県に属した。イーザーローンは1817年に当時のイーザーローン郡の郡庁所在地となった。この街は再び約20年間の隆盛期を経験した。 経済発展は社会問題を引き起こした。早くから工業化された街であるイーザーローンは、古くから労働運動の街でもあった。1840年に金属加工業者がこの街で最初期のストライキを行った。1848年/1849年の革命失敗後に住民の抵抗が増大し、1849年5月、武装した防衛軍の協力を得て蜂起に参加した人を捕縛しようとした。プロイセン政府のこの計画は住民の怒りに火をつけ、武器庫の占拠からイーザーローンの反乱が起こった。 19世紀半ばから金属産業は様々な理由により衰退していった。イーザーローンの金属業者は水力に強く依存したが、業者の数が多かったため市内の小川沿いにはもはや発展の余地がなかった。このためいくつかの業者はレネ川(ドイツ語版、英語版)やルール川沿いに移転していった。さらにルール地方では良質の鉄鋼や良質の製品を生産するための近代的な方法を採用することができた。また、鉄道の幹線(たとえばルール=ジーク鉄道)はイーザーローンを直接経由せず、2本の支線が建設されただけであった。1860年、ハーゲン - ジーゲン線にレトマーテ駅が開業した。レトマーテ - フレンデンベルク(ドイツ語版、英語版)線およびアルダイ鉄道(イーザーローン - ドルトムント)は1864年および1910年にそれぞれ開通した。 こうした経済的な問題にも関わらず、イーザーローンには金属工業の中規模企業が数多く残っていた。現在も内市街のいくつかの通りは採鉱やその加工業にちなんだ命名がなされている。たとえば、ガルマイ通り(Galmei = 亜鉛鉱)、ベルクヴェルク通り(Bergwerk = 鉱山)、シュタールシュミーデ(Stahl = 鉄鋼、Schmiede = 鍛冶屋)などである。 1830年代に腕木通信網ベルリン - コブレンツ線が設けられた。これはザウアーラントを経由しており、1833年にイーザーローンのフレンデンベルク(山)に中継所が設けられた。しかし新しい電信の登場により、約20年後には再び稼働停止となった。1909年に中継所の場所にダンツ塔が建設された。この建物は現在、街の象徴的建造物となっている。ここには現在、腕木通信の復元品が設置されている。 イーザーローンからレトマーテへの鉄道改良工事により、1868年にデヒェン洞窟(ドイツ語版、英語版)が発見された。この鍾乳洞は現在でも最も重要な見所の1つとなっている。
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