工業都市・閉鎖都市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:15 UTC 版)
「ニジニ・ノヴゴロド」の記事における「工業都市・閉鎖都市」の解説
1917年の十月革命以前にはオカ川にもヴォルガ川にも橋はかかっておらず、人も列車もフェリーを利用していた。大河ヴォルガを超える最初の橋は1914年にモスクワ=カザン鉄道会社が建設に着手した鉄道橋だが、ソ連時代になるまで完成せず、コテリニチ行きの鉄道が供用されたのは1927年になってからだった。 1932年から1990年までは、この街出身の文豪マクシム・ゴーリキーにちなんで街の名は「ゴーリキー」となっていた。1932年、ゴーリキーは1921年以来療養で滞在していたイタリアからソ連へと戻った。彼をソ連へ招待したヨシフ・スターリンは作家の帰国を大々的なプロパガンダに利用し、生まれ故郷の街の名までゴーリキーに変えてしまった。 ソ連時代にはNNAZ(ニジニ・ノヴゴロド自動車工場、後にGAZ・「ゴーリキー自動車工場」に改称、「ヴォルガ」ブランドの自動車で有名)が誕生した。アメリカの自動車王ヘンリー・フォードから技術を導入してトラックやトレーターを製造しており、フォードも機械や人員を送るなど支援を行った。その他様々な軍需・民需の工業の拠点となったが、それゆえ外国人の立ち入りが禁止された閉鎖都市となった。ソ連国内の旅行客には、ゴーリキーはヴォルガ川遊覧の船に乗るために立ち寄る街であったが、軍事上の都合から1970年代半ばまでは市街地図すら市販されていなかった。原子力産業も位置し、1980年から1986年にかけては、ノーベル平和賞受賞者で核物理学者のアンドレイ・サハロフ博士がソビエト連邦のアフガニスタン侵攻への批判をとがめられ、夫人と共に外国人と接触できないゴーリキー市へ国内流刑となっていた。1990年、街の名が元に戻ると同時に閉鎖都市も解除された。
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