宮中某重大事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:50 UTC 版)
詳細は「宮中某重大事件」を参照 1918年(大正7年)の春、久邇宮邦彦王を父に持ち、最後の薩摩藩主・島津忠義の七女・俔子を母に持つ、久邇宮家の長女・良子女王(香淳皇后)が皇太子妃に内定し、翌1919年(大正8年)6月に正式に婚約が成立した。 しかし11月、元老・山縣有朋が「良子女王の家系(島津家)に色盲遺伝がある」として婚約破棄を進言した。山縣は、西園寺公望や首相の原敬と連携して久邇宮家に婚約辞退を迫ったが、長州閥の領袖である山縣が薩摩閥の進出に危惧を抱いて起こした陰謀であるとして、民間の論客・右翼から非難されることとなった。当初は辞退やむなしの意向だった久邇宮家は態度を硬化させ、最終的には裕仁親王本人の意思が尊重され、1921年(大正10年)2月10日に宮内省から「婚約に変更なし」と発表された。 事件の責任を取って宮内大臣中村雄次郎が辞任し、山縣も枢密院議長など全官職の辞職願を提出した。しかし、同年5月に山縣の辞表は詔を以て却下された。この事件に関して、山縣はその後一言も語らなかったという。翌年2月1日、山縣は失意のうちに病気により没した。
※この「宮中某重大事件」の解説は、「昭和天皇」の解説の一部です。
「宮中某重大事件」を含む「昭和天皇」の記事については、「昭和天皇」の概要を参照ください。
宮中某重大事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:53 UTC 版)
詳細は「宮中某重大事件」を参照 大正7年(1918年)9月、米騒動に対処できなくなった寺内首相は辞任し、山縣は西園寺を首相に推薦した。しかし西園寺も拝辞し、政友会総裁となっていた原敬を推薦した。山縣も、これを承認せざるを得ず原内閣が成立した。原内閣成立後は次第に原を評価していくようになる。大正8年(1919年)1月から2月にかけてはスペインかぜに罹患し、死の淵をさまよったが回復している。大正9年(1920年)1月には東京市電争議や八幡製鉄所争議を解決した手腕をみて「どうも原は偉い」と評価している。 大正9年夏頃、皇太子妃に内定していた久邇宮良子女王に色覚異常の遺伝があるのではないかという情報が山縣のもとに伝わった。当時軍人は色覚異常は不適格であるとされており、軍務を務めることが前提となっている皇族に色覚異常が伝わることを山縣は懸念した。6月18日、波多野敬直宮内大臣を辞任させ、山縣系の中村雄次郎が宮内大臣となった。10月、山縣と元老、中村宮相は医師団の報告を受けて対策を検討し、伏見宮貞愛親王を通じて良子女王の父久邇宮邦彦王に婚約を辞退するよう「考慮」を願うよう伝えた。しかし久邇宮は一旦決定したことは軽々しく変更するべきではないと反対し、杉浦重剛らを動員して婚約変更反対の運動を開始した。問題が大きくなったため、山縣は小田原から出て東京に滞在し、12月14日には枢密院議長の辞表を提出して一歩も引かない姿勢を示した。しかし久邇宮と杉浦らの反対運動は一層強固となった。山縣は12月30日に婚約の調査が不十分であったとする待罪書を提出し、小田原に戻って謹慎した。大正10年(1921年)には一部の代議士が動くようなり、政治問題化の様相を示した。山縣はなおも婚約辞退にむけて動きを続けたが、山縣閥の有力者清浦奎吾枢密院副議長も久邇宮側に配慮する姿勢を見せ、原首相や元老たちも問題から距離を置くようになっていった。さらに山縣が皇太子裕仁親王の訪欧を推し進めたとして国粋主義者の反発を受けるようになっており、暴動も懸念される情勢となった。2月9日、中村宮相が婚約辞退は不可能であると進言し、山縣も反論しなかった。2月18日、内大臣であった松方が山縣に無断で辞表を提出した。山縣も追随せざるを得ず、2月21日に全官職の辞職と栄典の辞退を申し出る書面を奉呈した。しかし大正天皇の病状が進行したため摂政設置問題が喫緊の課題となっており、原首相の主導で5月18日に山縣と松方の辞表は却下された。山縣は原をさらに信頼するようになり、摂政設置や陸相の人事問題など、従来山縣主導で行われていたことが原の主導で進んでいくことを容認した。しかしこの騒動で急速に老け込んだ山縣は、毎年の恒例としていた京都滞在も行えないようになった。
※この「宮中某重大事件」の解説は、「山縣有朋」の解説の一部です。
「宮中某重大事件」を含む「山縣有朋」の記事については、「山縣有朋」の概要を参照ください。
宮中某重大事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 13:42 UTC 版)
第一王女の良子女王は1918年(大正7年)1月に皇太子裕仁親王との婚約が内定したが、後に婚約破棄や山縣有朋暗殺説が飛び交う宮中某重大事件と称する事件へと発展した。 発端は枢密院議長山縣有朋が良子女王の母方である島津家に色盲の遺伝ありと軍医学校教官の草間要より聞いたことに始まる。他にも山縣は良子女王の兄朝融王が学習院の身体検査において色弱の疑いがあると診断されたとの情報を良子女王の担当医平井政遒より得て、皇室に色覚障害の遺伝子が混ざる事を恐れた山縣は元老西園寺公望、同松方正義と内談する。両元老は山縣に同意し、久邇宮に婚約を辞退させようと謀る。医師団の見解としては良子女王には色覚異常は認められないものの、色覚異常の遺伝子を有している為に皇子に遺伝する可能性があると判断した。 山縣はこれを受けて邦彦王に婚約解消を迫るが、邦彦王は貞明皇后に拝謁し直訴するに及び、また宮内省は1921年(大正10年)2月10日に「良子女王殿下東宮妃御内定ノ事ニ関シ世情種々ノ噂アリヤニ聞クモ、右御決定ハ何等変更ナシ」と発表する。宮内省がこの発表を行った頃には過激派が山縣や時の首相原敬、他の皇族を暗殺するとの噂があり、山縣が皇族に危害が及ぶ前に解決を図ったものである。この発表があるまで報道が禁止されていたため、新聞は一斉にこの件を宮中某重大事件として報じたが、そもそも真相が分からないため複数の高官が辞表を提出するなどの憶測を報じていた。事件が解決し皇太子と良子女王は3年後の1924年(大正13年)1月26日に成婚となった。一方、政界に隠然とした勢力を保ち続けていたさしもの山縣も、この件を契機に急速にその影響力を失っていく。 ところが翌年に長男の朝融王と酒井菊子の婚約破棄の問題が発生、この問題で邦彦王は先件とは逆の立場に陥ったため、婚約相手の酒井家や宮中からも大きな批判を受ける。結局婚約破棄は実現したものの、摂政宮から訓戒処分を受けることとなった。
※この「宮中某重大事件」の解説は、「久邇宮邦彦王」の解説の一部です。
「宮中某重大事件」を含む「久邇宮邦彦王」の記事については、「久邇宮邦彦王」の概要を参照ください。
宮中某重大事件と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
Weblioに収録されているすべての辞書から宮中某重大事件を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 宮中某重大事件のページへのリンク