色覚異常問題の発覚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 02:29 UTC 版)
「宮中某重大事件」の記事における「色覚異常問題の発覚」の解説
1920年(大正9年)春頃、学習院生徒の身体検査を行った陸軍軍医・草間要が、久邇宮邦英王の色覚異常を発見する。さらに兄・朝融王と、母方の叔父・島津忠重にも色覚異常があることを知り、島津家と久邇宮家との間に色覚異常遺伝の関係があると考えた。草間は密かに軍医学校長に相談し、そして陸軍から宮内省にも伝えられた。宮内省は今更そんな話が出ても困るので内密に収めるような姿勢を見せたが、山縣有朋の主治医である予備役軍医総監平井政遒の耳に入り、平井が山縣へ報告した。山縣が色覚異常に関する報告を受けたのは、5月中であった。 1909年(明治42年)に出された「陸軍士官候補生諸生徒其他陸軍志願者身体検査規則」では色覚異常者を不合格にするとしており、海軍も同様であった。また皇族身位令で、皇太子・皇太孫は満10歳になった後、陸軍および海軍の武官に任ずると定めていた。これらから山縣は、将来天皇に即位し大元帥となるべき者が色覚異常であっては困ると問題視した。 早速山縣は波多野宮内大臣を詰問したが、波多野がまともに取り合わなかった。6月20日に波多野は山縣の圧力により宮相を辞任し、後任は山縣系の中村雄次郎となった。山縣が原首相に語ったことによると、波多野では事務が進まない上に、5月19日の臣籍降下をめぐる皇族会議で皇族の賛意が得られなかったばかりか、そのことが外部に漏れた失態が原因であるとしている。読売新聞や東京朝日新聞も皇族会議の失敗が原因ではないかと報道しており、波多野自身も当時は皇族会議の失敗が主因であると語っていた。一方反山縣派は、この更迭は宮中を意のままにしたい山縣の陰謀であるとして批判し、原首相も同じ認識であった。この当時、色覚異常問題について認識していた政府・宮中関係者は山縣と波多野、そして石原健三宮内次官程度であり、だれも口外していない状況であった。後に婚約解消問題が浮上した後、波多野自身も解任の原因は婚約解消問題にあったと示唆するようになり、枢密顧問官の倉富勇三郎や、伊藤之雄・浅見雅男といった研究者も山縣が婚約解消の布石のために波多野を辞任に追い込んだという見解を示している。ただし、山縣が婚約解消について提議するのはこの数カ月後であり、この時点で婚約解消を決断していたという根拠は見つかっていない。
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