大戦末期「ドイツ革命」
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「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の記事における「大戦末期「ドイツ革命」」の解説
ドイツの敗戦が近づく中、同盟国は次々とドイツから離れようとした。1918年9月14日にはオーストリア=ハンガリー帝国が、9月25日にはブルガリア王国が連合国に休戦を懇願した。1918年8月末以降ドイツ軍部にも兵士の大量投降や戦意喪失の報告が次々と入ってきていた。 ルーデンドルフは戦況を絶望視するようになった。ここにきてヒンデンブルクとルーデンドルフは9月28日に政府に対して一刻も早くウィルソン米大統領の提唱する「十四か条の平和原則」を受け入れて休戦協定を結ばなければならない、そのためにも政府を改革して議会主義に基づく政府を作らねばならないとする通牒を送った。外相ヒンツェもこの見解を支持し、敗戦による「下からの革命」を防ぐため、今のうちに「上からの革命」を推し進めねばならぬと主張した。ヴィルヘルム2世はこの時まで戦況悪化を認識していなかったので軍部の提案に驚いたが、結局は軍部や外相の言い分を認めた。議会政治に反対していたヘルトリングは宰相を辞することとなった。 10月3日、後任のドイツ・プロイセン宰相に自由主義者として帝国議会から評価が高かったバーデン大公子マクシミリアンが任じられた。マクシミリアン自身は政党人ではなかったが、社民党、中央党、進歩人民党の三党がマクシミリアンを支持して与党を構成していたため、ドイツで初めての政党内閣となった。敗戦が確実になった今、ルーデンドルフは自分の権力をできるだけ他の者に引き渡して敗戦責任を分担させたがっていたのでマクシミリアンが権力を握るのに苦労はなかった。軍部独裁は終焉し、ドイツ史上初の政党政治が始まった。 マクシミリアンはアメリカ大統領ウィルソンと電報をやり取りして休戦交渉を要請したが、ウィルソンからは10月23日の回答で「軍国主義と王朝的専制主義の除去」を求められた。ドイツ国民の間ではヴィルヘルム2世の退位を求める声が強まった。マクシミリアンは休戦協定反対派に転じたルーデンドルフの罷免をヴィルヘルム2世に要請し、これを受けてヴィルヘルム2世は10月26日にルーデンドルフを解任した。後任の参謀次長にはヴィルヘルム・グレーナーが就任した。しかし、退位はする理由がないと拒否した。 10月28日に憲法改正が告示され、議会主義に基づく立憲君主制が導入された。しかし皇帝大権に関する規定が曖昧になっていたことなどから皇帝権力を温存し「偽装議会主義」に後退させる可能性を留保しているとして批判を集めた。結果憲法改正はドイツ国民の印象にほとんど残らず、革命を求める機運は収まらなかった。退位したくないヴィルヘルム2世は、10月29日、戦況を確認するという名目で不穏な空気に包まれるベルリンを離れてベルギーのスパに置かれている大本営に移動した。時間がたてば状況が変わるかもしれないと何の根拠もなく浅はかにも期待したのである。しかし、当然ながらこれによってベルリン市民の民心はますます皇帝から離反した。10月末にウィルヘルムスハーフェンにおいて無謀な作戦への動員を命じられた水兵たちが反乱を起こした。続いて11月4日にキール市でも水兵が反乱を起こし、労働者がこれに合流してキールは「労兵協議会」によって実効支配された。同様の運動が凄まじい勢いでドイツ全土に広がり、ドイツの主要都市は全て「労兵協議会」によって支配された。11月7日にはバイエルン王国においてクルト・アイスナーが中心となって王政打倒の革命が発生し、長き歴史を誇るヴィッテルスバッハ王家が滅亡した。これがきっかけとなって他のドイツ帝国諸邦でも王政打倒の革命が続々と勃発し、ドイツ帝国諸邦の全君主が退位を余儀なくされた。 ベルリンでも革命熱が収まらなくなり、11月7日に社民党は宰相マクシミリアンに対して皇帝と皇太子の退位を要求し、それが実現できぬ場合は政権から離脱すると通達した。ただし社民党のこの要求は決して皇室廃止を求める物ではなかった。皇太子ヴィルヘルムの長男ヴィルヘルムへの皇位継承についてはこの時点では極左の独立社会民主党と極右の国家保守党を除いて全政党に受け入れられていたのである。しかしこの期に及んでもヴィルヘルム2世はベルリンにいるマクシミリアンから電話で受けた退位要請を拒否した。大本営では前線部隊を率いて国内の革命運動を鎮圧しようなどという現実離れした議論さえ行われる始末だった。こういう封建的な空気の大本営にいたヴィルヘルム2世は戦争の勃発には自分に責任がないのだから退位せねばならない如何なる理由もないと本気で妄執していた。結果なし崩し的に皇室廃止に向かうことになってしまったのである。 進退きわまったマクシミリアンは11月9日午前中に独断でヴィルヘルム2世がドイツ皇帝位・プロイセン王位から退位したと宣言した。皇帝位からは退位したとしてもプロイセン王位からは絶対に退位しないと決めていたヴィルヘルム2世はこれに激怒した。しかしグレーナーから革命運動の鎮圧は不可能であることを告げられた。さらにヒンデンブルクがヴィルヘルム2世に「私は陛下がベルリンの革命政府に捕まるような責任を負うことはできません。オランダへお逃げになるしかありません」と進言した。ヴィルヘルム2世は怒りに震え、部屋を歩き回っていたが、やがて全てを諦め、静かな調子で外相ヒンツェに亡命の準備をするよう命じた。11月10日早朝に特別列車でスパの大本営をたってオランダへ亡命した。ホーエンツォレルン家の財産を何両もの貨車に満載して去っていった。似たような境遇に遭ったヨーロッパの王侯達の中でヴィルヘルム2世のように多額の財産を確保して国外退去した者は稀であった。 マクシミリアンの後を受けた宰相フリードリヒ・エーベルト(社民党共同党首)は将来の国家体制に関する最終決定は留保したかったが、フィリップ・シャイデマン(社民党共同党首)がカール・リープクネヒトを出し抜く意味で独断で共和国宣言をしてしまった。財産だけ持って早々にドイツから逃げたヴィルヘルム2世に対する世論は悪化しており、共和国宣言に大きな反発は無かった。保守政党でさえも共和国への移行は「一時的にはやむを得ない」とする意見が大勢となっていた。 オランダへ亡命したヴィルヘルム2世ははじめ公式な退位宣言をしないと決め、二人の皇太子にも同様の態度を取らせていた。しかし結局1918年11月28日に退位宣言に正式に署名した。 「ヴィルヘルム2世の退位(ドイツ語版、英語版)」も参照
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