大戦末期「ドイツ革命」とは? わかりやすく解説

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大戦末期「ドイツ革命」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 14:55 UTC 版)

ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の記事における「大戦末期「ドイツ革命」」の解説

ドイツ敗戦近づく中、同盟国次々とドイツから離れようとした。1918年9月14日にはオーストリア=ハンガリー帝国が、9月25日にはブルガリア王国連合国休戦懇願した1918年8月以降ドイツ軍部にも兵士大量投降戦意喪失報告次々と入ってきていた。 ルーデンドルフ戦況絶望視するようになった。ここにきてヒンデンブルクルーデンドルフ9月28日政府に対して一刻も早くウィルソン米大統領の提唱する「十四か条の平和原則」を受け入れて休戦協定を結ばなければならない、そのためにも政府改革して議会主義に基づく政府を作らねばならないとする通牒送った外相ヒンツェもこの見解支持し敗戦による「下からの革命」を防ぐため、今のうちに「上からの革命」を推し進めねばならぬ主張したヴィルヘルム2世はこの時まで戦況悪化認識していなかったので軍部提案驚いたが、結局は軍部外相言い分認めた議会政治反対していたヘルトリングは宰相辞することとなった10月3日後任のドイツ・プロイセン宰相自由主義者として帝国議会から評価高かったバーデン大公マクシミリアン任じられた。マクシミリアン自身政党人ではなかったが、社民党中央党進歩人民党の三党がマクシミリアン支持して与党構成していたため、ドイツ初めての政党内閣となった敗戦確実になった今、ルーデンドルフ自分権力できるだけ他の者に引き渡して敗戦責任分担させたがっていたのでマクシミリアン権力を握るのに苦労はなかった。軍部独裁終焉し、ドイツ史上初の政党政治始まったマクシミリアンアメリカ大統領ウィルソン電報やり取りして休戦交渉要請したが、ウィルソンからは10月23日回答で「軍国主義王朝専制主義除去」を求められた。ドイツ国民の間ではヴィルヘルム2世退位求める声が強まったマクシミリアン休戦協定反対派転じたルーデンドルフ罷免ヴィルヘルム2世要請し、これを受けてヴィルヘルム2世10月26日ルーデンドルフ解任した。後任参謀次長にはヴィルヘルム・グレーナー就任した。しかし、退位はする理由がないと拒否した10月28日憲法改正告示され議会主義に基づく立憲君主制導入された。しかし皇帝大権に関する規定曖昧になっていたことなどから皇帝権力温存し「偽装議会主義」に後退させる可能性留保しているとして批判集めた結果憲法改正ドイツ国民の印象にほとんど残らず、革命求め機運は収まらなかった。退位したくないヴィルヘルム2世は、10月29日戦況確認するという名目不穏な空気包まれるベルリン離れてベルギースパ置かれている大本営移動した時間がたてば状況が変わるかもしれない何の根拠もなく浅はかに期待したのである。しかし、当然ながらこれによってベルリン市民の民心はますます皇帝から離反した10月末にウィルヘルムスハーフェンにおいて無謀な作戦への動員命じられ水兵たちが反乱起こした続いて11月4日キール市でも水兵反乱起こし労働者がこれに合流してキールは「労兵協議会」によって実効支配された。同様の運動が凄まじい勢いでドイツ全土広がりドイツ主要都市全て労兵協議会」によって支配された。11月7日にはバイエルン王国においてクルト・アイスナー中心となって王政打倒革命発生し長き歴史を誇るヴィッテルスバッハ王家滅亡した。これがきっかけとなって他のドイツ帝国諸邦でも王政打倒革命続々勃発しドイツ帝国諸邦の全君主退位余儀なくされた。 ベルリンでも革命熱が収まらなくなり11月7日社民党宰相マクシミリアンに対して皇帝皇太子退位要求し、それが実現できぬ場合政権から離脱する通達した。ただし社民党のこの要求決し皇室廃止求める物ではなかった。皇太子ヴィルヘルム長男ヴィルヘルムへの皇位継承についてはこの時点では極左独立社会民主党極右国家保守党除いて政党受け入れられていたのである。しかしこの期に及んでヴィルヘルム2世ベルリンにいるマクシミリアンから電話受けた退位要請拒否した大本営では前線部隊率いて国内革命運動鎮圧しようなどという現実離れした議論さえ行われる始末だった。こういう封建的な空気大本営にいたヴィルヘルム2世戦争の勃発には自分責任がないのだから退位せねばならない如何なる理由もないと本気で妄執していた。結果なし崩し的皇室廃止に向かうことになってしまったのである進退きわまったマクシミリアン11月9日午前中に独断ヴィルヘルム2世ドイツ皇帝位・プロイセン王位から退位した宣言した皇帝位からは退位したとしてもプロイセン王位からは絶対に退位しない決めていたヴィルヘルム2世はこれに激怒した。しかしグレーナーから革命運動の鎮圧不可能であることを告げられた。さらにヒンデンブルクヴィルヘルム2世に「私は陛下ベルリン革命政府に捕まるような責任を負うことはできません。オランダへ逃げになるしかありません」と進言した。ヴィルヘルム2世怒り震え部屋歩き回っていたが、やがて全て諦め静かな調子外相ヒンツェ亡命準備をするよう命じた11月10日早朝特別列車スパ大本営をたってオランダへ亡命した。ホーエンツォレルン家財産を何両もの貨車満載して去っていった。似たような境遇遭ったヨーロッパ王侯達の中でヴィルヘルム2世のように多額財産確保して国外退去した者は稀であったマクシミリアンの後を受けた宰相フリードリヒ・エーベルト社民党共同党首)は将来国家体制に関する最終決定留保したかったが、フィリップ・シャイデマン社民党共同党首)がカール・リープクネヒト出し抜く意味で独断共和国宣言をしてしまった。財産だけ持って早々にドイツから逃げたヴィルヘルム2世対す世論悪化しており、共和国宣言大きな反発無かった保守政党でさえも共和国への移行は「一時的にやむを得ない」とする意見大勢となっていた。 オランダへ亡命したヴィルヘルム2世ははじめ公式な退位宣言をしないと決め二人皇太子にも同様の態度取らせていた。しかし結局1918年11月28日退位宣言正式に署名した。 「ヴィルヘルム2世退位ドイツ語版英語版)」も参照

※この「大戦末期「ドイツ革命」」の解説は、「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の解説の一部です。
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