大戦期の日本戦車師団の装備・編成の変遷とは? わかりやすく解説

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大戦期の日本戦車師団の装備・編成の変遷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 20:53 UTC 版)

機甲師団」の記事における「大戦期の日本戦車師団の装備・編成の変遷」の解説

大日本帝国陸軍では、1934年昭和9年3月編成され小型機甲師団ともいうべき独立混成第1旅団(2個戦車大隊基幹諸兵科連合部隊)が戦前では唯一のものであった独立混成第1旅団1938年昭和13年8月には廃止一方で隷下機甲部隊第1戦車団改変され以降日本陸軍は3個戦車連隊司令部からなる戦車団」3個を有すこととなる。ノモンハン事件では第1戦車団中心に歩兵などを臨時配属した運用が行われたほか、中国大陸戦線においては戦車集団」が何度臨時編成され機動打撃力として活動した1941年昭和16年2月陸軍機甲本部新設され機甲部隊に関する教育・編制技術開発諸業務統括調整図られた。そして1942年昭和17年6月24日戦車第1師団第2師団第3師団編成下令。しかしその編制は、既に太平洋戦争始まっていたにもかかわらずソ連戦を念頭にいたものであった理論上は2個戦車旅団(各2個連隊構成、各連隊戦車58保有)・1個機動歩兵連隊(3個大隊構成)を基幹機動砲兵連隊師団速射砲隊・師団捜索隊師団防空隊師団工兵隊等から編成されることになっていたが、部隊編成されたものの肝心戦車自動車・砲は揃わないといった状態がほとんどで、その上一部戦車連隊抽出されてしまうなどして、その編制すら満足になることはなかった。しかも新式戦車全て本土決戦向けて温存され、外地部隊大戦通して九七式中戦車とそのマイナーチェンジ型から更新されることはなかった。1942年7月には満州方面の2個戦車師団等を隷下とする機甲軍編成されたが、1943年10月廃止された。 1944年昭和19年7月6日には、本土決戦備えて千葉陸軍戦車学校などの教導部隊改編し、戦車第4師団編成下令された。戦車連隊3個を基幹にするものの歩兵を欠き砲兵最初から分属させるなど戦車第1・第2・第3師団較べて全く異な編制で、独立戦闘力のある機甲師団とは呼びがたいものだった

※この「大戦期の日本戦車師団の装備・編成の変遷」の解説は、「機甲師団」の解説の一部です。
「大戦期の日本戦車師団の装備・編成の変遷」を含む「機甲師団」の記事については、「機甲師団」の概要を参照ください。

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