大戦期の日本戦車師団の装備・編成の変遷
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「機甲師団」の記事における「大戦期の日本戦車師団の装備・編成の変遷」の解説
大日本帝国陸軍では、1934年(昭和9年)3月に編成された小型機甲師団ともいうべき独立混成第1旅団(2個戦車大隊基幹の諸兵科連合部隊)が戦前では唯一のものであった。独立混成第1旅団は1938年(昭和13年)8月には廃止、一方で隷下の機甲部隊は第1戦車団に改変され、以降日本陸軍は3個戦車連隊と司令部からなる「戦車団」3個を有すこととなる。ノモンハン事件では第1戦車団を中心に歩兵などを臨時に配属した運用が行われたほか、中国大陸の戦線においては「戦車集団」が何度か臨時に編成され機動打撃力として活動した。 1941年(昭和16年)2月、陸軍機甲本部が新設されて機甲部隊に関する教育・編制・技術開発の諸業務の統括調整が図られた。そして1942年(昭和17年)6月24日に戦車第1師団・第2師団・第3師団の編成が下令。しかしその編制は、既に太平洋戦争が始まっていたにもかかわらず対ソ連戦を念頭においたものであった。理論上は2個戦車旅団(各2個連隊構成、各連隊は戦車58輛保有)・1個機動歩兵連隊(3個大隊構成)を基幹に機動砲兵連隊・師団速射砲隊・師団捜索隊・師団防空隊・師団工兵隊等から編成されることになっていたが、部隊は編成されたものの肝心の戦車や自動車・砲は揃わないといった状態がほとんどで、その上一部の戦車連隊が抽出されてしまうなどして、その編制すら満足になることはなかった。しかも新式戦車は全て本土決戦に向けて温存され、外地部隊は大戦を通して九七式中戦車とそのマイナーチェンジ型から更新されることはなかった。1942年7月には満州方面の2個戦車師団等を隷下とする機甲軍が編成されたが、1943年10月に廃止された。 1944年(昭和19年)7月6日には、本土決戦に備えて千葉陸軍戦車学校などの教導部隊を改編し、戦車第4師団の編成が下令された。戦車連隊3個を基幹にするものの歩兵を欠き、砲兵も最初から分属させるなど戦車第1・第2・第3師団と較べて全く異なる編制で、独立戦闘力のある機甲師団とは呼びがたいものだった。
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