城山の校舎(1929-2008)
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「鳥羽市立鳥羽小学校」の記事における「城山の校舎(1929-2008)」の解説
「旧鳥羽小学校校舎#歴史」も参照 1929年(昭和4年)9月3日、鳥羽城跡に建設された新校舎へ移転した。新校舎は御木本幸吉の助言と出資によって校舎としては三重県で初めて鉄筋コンクリート構造を採用し、清水栄二が設計し、西本組(現・三井住友建設)が施工した。総工費は257,349円88銭であった。新校舎には梨本宮守正王ら皇族の来校も多く、1929年(昭和4年)11月21日・11月22日には全国初等教育大会の会場となった。1931年(昭和6年)8月、夏季海浜学校を開設した。 1941年(昭和16年)4月、国民学校令により鳥羽国民学校に改称し、1944年(昭和19年)には校内に軍隊が駐屯することになった。運動場の一部を「決戦畑」として開墾し、校地内に防空壕を掘るなど戦時体制に移行し、1945年(昭和20年)8月の終戦を迎えた。この間、鳥羽出身の門野幾之進(千代田生命保険創業者)の息子である門野雄吉が「門野奨学資金靄渓賞」(靄渓は「あいけい」と読む)を創設し、優秀な児童の表彰を開始した。 終戦後の1947年(昭和22年)、学制改革により鳥羽町立鳥羽小学校に改称、アメリカ軍から放出された粉ミルクを使った給食を開始した。同年、鳥羽中学校(統合を経て鳥羽市立鳥羽東中学校)の創立により、校舎の一角を貸与し、1948年(昭和23年)には鳥羽中学校と鳥羽高等学校の校舎交換で、鳥羽小の一角に鳥羽高校が移転した。鳥羽高校は1949年(昭和24年)に独立校舎を獲得した。小学校教育の面では、1949年(昭和24年)に子供銀行の創設と中断していた水泳の復活、1950年(昭和25年)に三重県実験学校研究発表会の開催、1953年(昭和28年)に児童図書館の設置があった。 1954年(昭和29年)10月1日、鳥羽町が周辺7村と合併して鳥羽市となり、校名が鳥羽市立鳥羽小学校に改称した。1957年(昭和32年)5月2日、堅神分校を廃止し、本校へ統合した。1964年(昭和39年)頃、「門野奨学資金靄渓賞」は終了し、代わって1965年(昭和40年)からは靄渓奨学会が毎年学校図書館の図書購入費を寄付するようになった。当初は鳥羽小のみが対象であったが、1972年(昭和47年)には鳥羽市の全小中学校と幼稚園が対象となり、2006年(平成18年)に門野が死去するまで続いた。鳥羽小では門野の功績を讃え、「アイケイ文庫」を学校図書室に設けていた。 教育研究では、1967年(昭和42年)に東海北陸指定放送教育研究発表、1969年(昭和44年)に三重県特別指定事業研究発表、1972年(昭和47年)全国ティームティーチング(英語版)研究大会発表(算数・体育)、1987年(昭和62年)に三重県性教育プロゼクト研究委嘱があった。この間、校舎は児童数の増加や老朽化への対応として改修工事が幾度も行われた。1999年(平成11年)2月7日、学校の主催で学校周辺の歴史遺産などを巡る親子ウォークラリー大会を開催した。 2002年(平成14年)12月、鳥羽市は校舎の改築を打ち出したが、その後の調査で設計者が清水栄二であることが判明し、PTAや同窓会からは校舎の保存とよりよい場所への移転を求める声が上がった。移転候補地は2004年(平成16年)に鳥羽一丁目、2005年(平成18年)に小浜町と二転三転した末、2006年(平成18年)3月に堅神町で決着した。そして2008年(平成20年)度の予算案に建設費6億5千万円が盛り込まれた。その後、建設費が1億3560万円不足することが判明し、補正予算が組まれた。この間、2007年(平成19年)3月に鳥羽市立小浜小学校の全児童が卒業したため休校に入り、新年度の入学予定者が鳥羽小への入学を希望したため、事実上鳥羽小に統合された。(小浜小の正式な廃校は2009年〔平成21年〕3月31日。)
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