劇団「天井桟敷」結成から死去まで
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「寺山修司」の記事における「劇団「天井桟敷」結成から死去まで」の解説
1967年(昭和42年)1月1日、横尾忠則、東由多加、九條映子らと劇団「天井桟敷」を結成。4月18日、草月アートセンターで旗揚げ公演『青森県のせむし男』を上演。6月、新宿末広亭で第2回公演『大山デブコの犯罪』。アートシアター新宿文化で第3回公演『毛皮のマリー』。同作に出演した美輪明宏は、この頃の寺山を「あまりにもシャイで、人の目をみて話せない男」と評している。 3月、評論集『書を捨てよ、町へ出よう』が刊行される。33歳で九條と別居。 1969年(昭和44年)、西ドイツ・フランクフルトの『国際実験演劇祭』に招かれ、『毛皮のマリー』『犬神』を初の海外公演。カルメン・マキの「時には母のない子のように」の作詞を手がける。同年12月12日、天井桟敷と状況劇場の団員ら乱闘事件を起こし、唐十郎とともに暴力行為の現行犯で逮捕される。きっかけは双方の劇団がお祝いとして中古の花輪や葬儀用の花輪を贈り合ったことによるもの。 1970年(昭和45年)3月24日、漫画『あしたのジョー』の登場人物、力石徹の葬儀で葬儀委員長を務める。34歳で九條と離婚。離婚後も彼女は晩年の寺山のよき協力者となった。 1971年(昭和46年)、『書を捨てよ、町へ出よう』で劇映画に進出。サンレモ映画祭でグランプリを獲得。フランスのニースで作家ル・クレジオと2日間語り明かす。ロッテルダム国際詩人祭に出席し、詩を朗読。ナンシーの演劇祭で『人力飛行機ソロモン』、『邪宗門』公演。ベルリンのフォーラム・シアターで『邪宗門』公演。ベオグラード国際演劇祭で『邪宗門』がグランプリ受賞。 1974年(昭和49年)、映画『田園に死す』が公開され、文化庁芸術祭奨励新人賞、芸術選奨新人賞を受賞。1975年(昭和50年)、杉並区内で上演された市街劇『ノック』が住民の通報により警察沙汰となる。1976年(昭和51年)には第26回ベルリン国際映画祭に審査員として招待され、参加。1979年(昭和54年)、肝硬変で入院。 1979年 寺山修司・天井桟敷の演劇レミングが東京晴海で公開された、当日開演を待つ客の長い列に寺山修司が客に顔見せ確認をしながら歩いてきた、みんな感激しながら静かにこの認識を体験していた、みんなこの認識も演劇の主題の一部に違いないという了解表情であった。(このエピソードの証人は作家水上勉・越前竹人形の会の女流琵琶演奏家・民族音楽学者 小泉文夫の姪である) 1980年(昭和55年)7月13日午後10時ごろ、渋谷区宇田川町で取材中、アパート敷地に住居侵入した容疑で警視庁渋谷警察署に逮捕。アパート経営者の息子は「5年ほど前もしばしばこのアパート付近をうろつき、一度は警察ざたになったこともあったため、また来たと思って警察に届けた」という。容疑を認めた寺山は2日後に釈放され、住居侵入罪で略式起訴され8000円の罰金刑を受けた(この時の身元引受人は矢崎泰久であった)。『毎日新聞』は「寺山修司が『のぞき』アパート侵入、つかまる。罰金で釈放」、『読売新聞』は「寺山修司が″のぞき″女性アパートで二度も 突き出され罰金」と報じた。このスキャンダルにより、寺山の一切の仕事は無期延期とされたが、寺山は「市街における訪問劇『ノック』の上演地をリサーチしていた中の敷地内立ち入りであり、覗きの現行犯ではない」旨の反論を『週刊朝日』に書いた。渋谷署副署長の清水清七も「ノゾキのノの字も、広報簿には載せていません」と発言している。 1981年(昭和56年)、肝硬変の再発で再入院。 1982年(昭和57年)、朝日新聞に詩『懐かしのわが家』を発表。パリで「天井桟敷」最後の海外公演を行い、『奴婢訓』を上演。年末には、最後の演出作品となった「 レミング―壁抜け男―」を紀伊國屋ホールにて上演。 1983年(昭和58年)、東京都港区三田に在住中に肝硬変を発症し阿佐ヶ谷の河北総合病院に入院後、腹膜炎を併発し、5月4日に敗血症のため死去、47歳没。葬儀委員長は谷川俊太郎。
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