働かざる者食うべからず
働かざる者食うべからず
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 21:49 UTC 版)
「テサロニケの信徒への手紙二」の記事における「働かざる者食うべからず」の解説
3章10節には「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」(口語訳)という一節があり、これは後のキリスト教徒の職業観・労働観に広く影響したものであるとともに、「働かざる者食うべからず」という表現が広く知られる元となった。 ここで書かれている「働こうとしない者」つまり「怠惰な」者とは、あくまでも「正当で有用な仕事に携わって働く意志をもたず、働くことを拒み、それを日常の態度としている」者と解される。つまり、病気や障害によって働きたくても働けない人や非自発的失業者を切り捨てるような文言ではない。 この格言のような句は、実際にはパウロの他の書簡に出てこないのは勿論のこと、旧約・新約の他の箇所にも見られない。また、ギリシア・ローマの古典にも見出されない。そこで、その起源は推測するしかないが、大きく分けるとヘレニズム起源説とヘブライズム起源説に分かれる。これについては、ヘレニズム文化において肉体労働は重視されることがなく、また主人に対して奴隷の使い方を勧告した言葉が元になっていると見ようとしても、この句には使役の意味合いが含まれていない(つまり働かせる側でなく働きうる当人に述べられている)ことなどから、創世記や箴言で示されている労働観とも結びつくヘブライズム起源説の方に分があると見られている。 この句はあくまでも1世紀当時の浮ついたテサロニケ教会の人々に即した勧告であって、全時代的・普遍的な労働の黄金律を示したものと解釈されるべきではない。しかし、古代から中世にかけての聖職者の生活には、この句が強く影響した。古代の教父たちも労働の重要性を説く際にこの句を引いており、アレクサンドリアのアタナシオス、カイサリアのバシレイオス、ヒッポのアウグスティヌスらの著書にそうしたくだりを見出すことが出来る。さらにはベネディクト会の標語「祈りかつ働け」もまた、この句にもとづくものであるが、当時積極的に評価されたのは修道院での労働である。 もっとも、宗教改革が起こると、ジャン・カルヴァンは逆に、修道士や司祭が他人の汗によって養われているとして、この句の注解で聖職者に対する批判を展開した。また、宗教改革期に、世俗的な職業労働も積極的な評価の対象に入るようになった。その中でピューリタンのリチャード・バクスター(英語版)は、全キリスト者に与えられた神からの義務として職業労働を位置づける際に「働こうとしない者は」云々を神からの命令として引き合いに出し、市民的労働観の形成に寄与した。 この句を労働価値説に基づいて「働かざる者食うべからず」と改変したのが、ソ連およびソ連共産党(前身はボリシェヴィキ)の初代指導者ウラジーミル・レーニンである。彼は、同党の機関紙「プラウダ」第17号(1929年1月20日発行)の論文「競争をどう組織するか?」で、「働かざるものは食うべからず」は社会主義の実践的戒律であると述べた。この論文はユリウス暦1917年12月25日から28日(1918年1月7日から10日)に執筆されていたものであり、この概念はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の1918年憲法で初めて定式化された。その第18条の条文には「はたらかないものは、くうことができない」と明記されている。さらには、ソ連の1936年憲法(スターリン憲法)第12条にもこの表現があり、同様の規定は第二次世界大戦後の東ヨーロッパの共産主義諸国の憲法にも見出すことが出来た。ことに、ルーマニア人民共和国憲法(1952年)の第15条には、「はたらかないものは、くうことができない」の文言がある。 日本国憲法の勤労の義務は、マッカーサー草案や内閣の草案で勤労の権利しか盛り込まれていなかった条項に、衆議院での審議の際に日本社会党の提案によって加筆されたものである。この社会党の提案にスターリン憲法の「働かざる者食うべからず」からの影響があったとも言われている。また、かつては憲法学者の宮澤俊義のように、日本国憲法の勤労の義務を、不労所得の排除まではいかずともその制約を認めうる規定として、共産主義諸国の「働かざる者食うべからず」の原則と繋がるものと解釈する者もいた。 ベーシックインカムの議論なども持ち上がっている21世紀の日本では、「働かざる者食うべからず」という言葉は労働を神聖視するものとして槍玉に上がることもしばしばであるが、むしろ本来の「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」の句に立ち返った上で、その本来の意味を正確に受け止め直し、社会に生かしていく方途を模索すべきことも提案されている。
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