作家への道
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「アンドレ・デビュース」の記事における「作家への道」の解説
アンドレ・J・デビュース IIは、キャサリン(バーク)とアンドレ・J・デビュースの末息子として、アメリカ合衆国ルイジアナ州レイクチャールズに生まれた。一家はアイリッシュ系ケイジャンのカソリックである。姉二人はキャスリンとベス。姓Dubusは「デビュース」( "Duh-BYOOSE")と発音し、profuseのように第2音節にアクセントを置く。デビュースはラファイエット (ルイジアナ州)のバイユー郡で育ち、文学と創作に注力するカソリック系の学校クリスチャン・ブラザーズに学んだ。1958年、マクニース州立大学(英語版)をジャーナリズム&文学専攻で卒業。その後6年間を海兵隊で過ごし、最終的に大尉の位まで昇進した。同時期に最初の結婚をし、家庭を持っている。海兵隊を除隊後、妻と子供4人を連れてアイオワシティへ引っ越し、アイオワ大学のアイオワ・ライターズ・ワークショップで、リチャード・イェーツの指導の下、クリエイティブ・ライティングのMFA(マスター・オブ・ファイン・アーツ)を授与され同大学院を卒業した。その後、一家はマサチューセッツ州ヘイヴェル(英語版)へ引っ越した。この地において、デビュースはブラッドフォード大学の教授として文学と創作を教える一方、執筆活動を続行することになる。尊敬する作家はアーネスト・ヘミングウェイ、アントン・チェーホフ、ジョン・チーヴァーであった。
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作家への道
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1895年(明治28年)9月、学習院中等科に入学する。翌1896年(明治29年)、有島生馬らとともに「倹遊会」(後に「睦友会」に改名)を結成し、その会誌『倹遊会雑誌』を発行する。直哉は「半月楼主人」や「金波楼半月」といった筆名で同誌に和歌などを発表。これが直哉にとって初めての文筆活動であった。しかしこの頃の直哉はまだ小説家志望ではなく、海軍軍人や実業家を目指していた。またスポーツに没頭しており、特に自転車には「学校の往復は素より、友だちを訪ねるにも、買い物に行くにも、いつも自転車に乗って行かない事はなかった」というほど熱をあげた。 中等科在学中の1901年(明治34年)7月、直哉は志賀家の書生だった末永馨の勧めにより、新宿角筈で行われていた内村鑑三の講習会に出席する。そこで直哉は煽動的な調子のない「真実さのこもった」「胸のすく想いが」する内村の講義を聴く。「本統のおしえをきいたという感銘を受けた」直哉はこうして内村の魅力に惹かれ、以後7年間、内村に師事するようになる。直哉はのちに、自分が影響を受けた人物の一人として内村の名を挙げている。ただし後述のように無宗教家であり、キリスト教には入信していない。内村のもとへ通い始めてから5ヵ月が経った同年11月、直哉は足尾銅山鉱毒事件を批判する内村の演説を聞いて衝撃を受け、現地視察を計画する。しかし、祖父・直道がかつて古河市兵衛と足尾銅山を共同経営していたという理由から父・直温に反対されて激しく衝突。長年にわたる不和のきっかけとなる。 中等科時代の直哉は真面目な学生だったとは言い難く、3年時と6年時に2回落第している。複数回の落第をしたことに対し直哉は「品行点が悪かった」ためであると説明している。授業中、口の中に唾がたまると勝手に立ち上がり窓を開けて校庭に向かって唾を吐くなど、教室での落ち着きのなさが目立ったために低い点をつけられたようである落第の結果、2歳年下の武者小路実篤と2度目の6年時に同級となる。途中、文学上の言い争いから直哉が武者小路に絶縁状をたたきつける事件はあったものの、直哉と武者小路は生涯にわたって親交を結ぶことになる。 1897年(明治17年)頃、直哉は華族女学校の女学生への態度がけしからんという理由で、下級生の滋野清武を有島生馬、松方義輔と一緒に殴ったことがある。これは『人を殴つた話』に書かれた。滋野はのちに学習院を退学し、飛行士になった。 1903年(明治36年)、学習院高等科に入学。高等科の頃の直哉は女義太夫に熱中していたが、それがきっかけとなり小説家志望の意志を固めた。女義太夫の昇之助の公演を見て感動し「(自分も昇之助と同じように)自分のやる何かで以て人を感動させたい」「自分の場合(それは)小説の創作」だと考えたと直哉は後に語っている。ちょうどその頃アンデルセンの童話を愛読していた直哉はそれに影響され、「菜の花と小娘」という作品を執筆している。一般的に直哉の処女作は「或る朝」(後述)とされるが、後年、直哉はこの作品を「別の意味で処女作」だったと振り返っている。なお1906年(明治39年)1月、祖父・直道が死去している。 1906年(明治39年)7月、学習院高等科を卒業。卒業時の成績は武課が甲、それ以外はすべて乙、品行は中、席次は22人中16番目であった。同年9月、東京帝国大学英文学科に入学する。東京帝大では夏目漱石の講義には興味を持ったものの、他の授業にはほとんど出席しなかった。1908年(明治41年)には国文学科に転じたが、大学に籍を残したのは徴兵猶予のためだけで大学からはますます足が遠のいた。1910年(明治43年)、正式に東京帝国大学を中退する。そのため徴兵猶予が解かれ徴兵検査を受ける。甲種合格となり同年12月1日、千葉県市川鴻之台の砲兵第16連隊に入営するが、耳の疾患を理由に8日後に除隊する。 内村鑑三のところへ通い始めた後から大学の頃までの直哉は、以下の文学に親しんでいる。近代日本文学では、尾崎紅葉、幸田露伴、泉鏡花といった硯友社に参加する作家の作品や、徳冨蘆花、夏目漱石、国木田独歩、二葉亭四迷、高浜虚子、永井荷風の作品を読んだ。また平安朝の文学や近松門左衛門、井原西鶴、式亭三馬、十返舎一九の作品など、近代以前の日本文学も読んでいる。外国文学においてはイプセン、トルストイ、ツルゲーネフ、ゴーリキー、ハウプトマン、ズーダーマン、チェーホフ、モーパッサン、フランス、小泉八雲といった作家の作品を愛読した。 東京帝大在学中の1907年(明治40年)4月、武者小路実篤、木下利玄、正親町公和と文学読み合わせ会「十四日会」を開く。翌1908年(明治41年)、「十四日会」の4人により同人誌『暴矢』(後に『望野』)が発行される。そしてこの年の1月、直哉は「或る朝」を執筆している。これは祖父の三回忌の朝における祖母とのやりとりについて書いた作品である。直哉は後にこの作品について「多少ともものになった最初で、これをよく私は処女作として挙げている」と述べている。同年8月には「網走まで」を執筆して『帝国文学』に投稿するが没にされた。その後1910年(明治43年)、直哉は『望野』の他のメンバー、『麦』(里見弴らが所属)のメンバー、『桃園』(柳宗悦らが所属)のメンバーとともに雑誌『白樺』を創刊する。そしてその創刊号に「網走まで」を発表する。以後、直哉はこの雑誌に「范の犯罪」や「城の崎にて」「小僧の神様」などの作品を発表していった。
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