佐幕活動とは? わかりやすく解説

佐幕活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 14:30 UTC 版)

今井信郎」の記事における「佐幕活動」の解説

慶応2年1866年)の春、岩鼻代官所から招聘され1ヵ年の契約赴任剣道師範携わっていたが、翌年慶応3年1867年5月江戸で京都見廻組への入隊拝命同年10月着京した。そして、選抜され京都見廻組与力頭となり、今出あたりに旅宿構えていたが、その腕前はたちまち組じゅう知られ新選組では服部武雄見廻組では今井信郎並称されるようになった今井は、京都公務邁進する過程で、ほどなく坂本龍馬暗殺事件関わることになる。 慶応3年1867年11月15日朝、桑名藩士見廻組一員である渡辺吉太郎今井寓居訪ねてきた。二人でなにかヒソヒソ話していたが、やがて今井は、をつけ、竹の小笠をかぶり、地面引きずるような朱鞘長刀をさし、妻いわに「ちょっと行ってくるよ」と言い渡辺連れ立って出かけた。その日は朝来曇り空で、時々しぐれ寒々降り過ぎるような天であった。妻いわは、今井扮装見ててっきり斬込みに行くものと思い不安な思い待っていたが、遂にその夜帰ってこない。翌日になっても姿を見せない殺されものなら誰かが知らせてくれるだろうと度胸定めていたところ、今井は、懐ろ手をしてブラリ帰ってきた無言のまま部屋の隅に行き、後向きになって何かコソコソしている。ソッと覗いてみると右手包帯をとき、焼酎か何か消毒している。「どうしてお怪我なさったのか」と訊くと、「よけいなことをきくに及ばん」と叱りつけ、ひどく不機嫌である。そのまま黙って捨てておくより外なかった。 それより二十数日後12月9日夜、小御所会議において、薩長を後とする岩倉具視強行により武断大政が行われた。徳川慶喜辞職聴許と共に退官納土の内諭下され、会両藩は禁門警衛解かれた。上下大混乱のなか、12日夜、慶喜倉皇として二条城退き大阪城退いたあとには幕府側の遊撃隊新選組見廻組、津、大垣の藩兵などが二条城籠り、反薩長気勢をあげた。今井二条城詰め数日間自宅に帰らなかったが、ある朝早く妻いわの寝ているうちに帰ってくるなり、「これからすぐお前だけ江戸へ帰れ早く荷拵えしろ、俺も手伝ってやる」と急ぎたて支度させた。その時長刀一通褒状を妻いわに與へ「これでもって俺が坂本中岡とを斬った。榊原先生お目にかけてくれ。これは守護職から賜った褒状だ」といって、はじめて真相うちあけた。 話によれば坂本龍馬越前松平春嶽会って帰って以来見廻組彼の身辺監視していると、しきりに何か策謀しているらしい捨ておいては何をするか判らない、斬ってしまえという守護職の命で、佐々木唯三郎がその衛にあたる事になった慶応3年1867年11月15日龍馬暗殺当日佐々木唯三郎の下には、今井信郎渡辺吉太郎高橋安次郎隼之介、土肥仲蔵桜井大三郎の6名、連れ立って坂本宿屋附近までやってきた。八ッ時(午後2時頃)、まず京都与力隼之介を先行させ、在宿有無を探らせたところ、不在とのことで、一同しばらく東山辺で時をかせぎ、夜になるのを待った。五ッ時(午後8時)近く四条大橋さしかかった時、丁度はやんでいたので、佐々木一同に命じ傘を脱いで橋下投げ捨て各自の袂や懐中探って後日証拠となるような品を投機させた。そこで斬込み順番の籤を引くと、今井第三番にあたったので、大不平やりなおし強要し今度第一番にあたった河原町三条下ル近江屋前にくると、今井単身先に立って表戸叩き案内乞うた。二階から取次におりてきたのは、以前雲井龍と称した相撲上がり下僕藤吉である。これは海援隊書記長岡謙吉の僕であるが、警衛の意味をも兼ねて数日前から坂本につけてあった。今井用意してきた手札出し、「松代藩の者であるが才谷先生はお在宿か」と尋ねると、「一寸お待ちください」と云って藤吉手札をもち、二階上がろうとする。お待ちくださいとゆうからには在宿決まっていると思ったので、階段上がりかけた藤吉を、いきなり背後から抜打ち斬り倒した。そして刀を一旦鞘におさめて何食わぬ顔をして二階上がっていった。二階八畳の間には、火鉢囲んで二人武士話しをしていた。どちらが坂本か、全然顔を知らないので咄嗟機転部屋に入るなり膝をつき、「坂本先生、しばらく」と挨拶し左手鯉口を切りながら膝行寄った坂本は、「どなたでしたかな」と言って、顔をさしよせるようにした。瞬間今井の刀は掛声と共に走って坂本脳天を横に拂った右手にいた中岡は、脇差をもって立ち上がろうとした。そこを今井立ち上がりざまに斬りつけた。中岡脇差を抜く暇なく、鞘ごと両手頭上捧げるようにして受けたが、受けきれなかった。今井は、叩きつけるように数刀浴びせ中岡斬り伏せた。その間に、坂本背後にあった太刀をとり、既にヨロヨロしながら引き返して来ようとしていた。それと見て今井は、踏み込むなり肩先から大袈裟に斬った。その時坂本は、何ともいえぬ悲惨な泣くような悲鳴をあげたので、「この意気地なし奴」、叱咤しながら一太刀横に拂った坂本提げていた刀の鞘を削り、腰のあたりに斬りつけた。部屋入ってからほんのニ三分の間のできごとである。 「父は小太刀名人であったという定評になっているようだが、それは何かの間違いで、いつも引きずるような長刀好んで差していた。しかも古刀は駄目だ、新刀の重いやつに限ると言っていた。坂本を斬ったのも新刀長いやつで、天井つかえて困ったそうだ。それを母が持って帰る時に縦にしては籠に入らず斜めにして持ってきたというから、よほど長かったらしい。父の右手人差指は、第二関節から曲がったまま自由が利かなかったが、誰の過失で傷いたものか、名前は言わなかった。現場に刀の鞘を忘れてきた者がいたが、誰であるかは言わなかった」信郎三男今井健彦氏談。 坂本龍馬中岡慎太郎とが、京都河原町三条下ル近江屋二階暗殺された時、現場刺客遺失した刀の鞘1本、および瓢亭の印のある下駄一足残っていた。これを証拠として、下手人次のように推定された。 一、この鞘は、新選組原田左之助のものであるたしかに見覚えがあると、証明する者がいた。 一、中岡記憶によると、刺客坂本斬る時、「コナクソ」と掛聲をした。これは四国訛であり、原田左之助伊予松山浪人である。 一、瓢亭問合わせたところ、印入り下駄新選組の者に貸した覚えがあるとのことだった。 暗殺策謀したのは新選組直接下手人原田左之助という見当がついた、その頃紀州藩公用三浦休太郎新選組との間に、頻繁に交渉のあるところから見て三浦の手引きに相違ない決定された。その後も、土佐方では新選組坂本の敵と見なし探索を怠らなかったが、何等確証得られなかった。近藤勇板橋処刑する時にも、厳重糺問したが不得要領に終わり当の下手人目され原田左之助は、彰義隊投じて銃創を受け、本所猿江町神保伯耆守邸で死んでしまったので、手懸り途絶えた慶応4年1868年1月鳥羽・伏見の戦い敗れた後、今井は、江戸に戻ると、幕府陸軍訓練担当していた古屋佐久左衛門と共に脱走した幕府歩兵鎮撫に当たり、後に組織され衝鋒隊副隊長となり、戊辰戦争においては最後箱館戦争まで戦い抜いた

※この「佐幕活動」の解説は、「今井信郎」の解説の一部です。
「佐幕活動」を含む「今井信郎」の記事については、「今井信郎」の概要を参照ください。

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