主著解題
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『新鬼神論』(のち『鬼神新論』として刊行) 1805年(文化2年)完成。1820年(文政3年)に刊行。この書名は新井白石の『鬼神論』を意識したもので、新井白石・荻生徂徠・伊藤仁斎など儒者の「鬼神論」を論じたもの。神霊の実在を、内外の古典に照らして主張した。 『本教外篇』(『本教自鞭策』) 1806年(文化3年)成稿。2巻。5部構成。キリスト教のいくつかの教典(艾儒略(ジュリオ・アレーニ)『三山論学紀』、利瑪竇(マテオ・リッチ)『畸人十編』、龐廸我(ディエゴ・デ・パントーハ)『七克』)を翻訳したもの。直訳ではなく、自らの思想に合わせるように多少改変している。第5部については、パントーハの『七克』のほとんど全部に訓点を付けたもので「山上の垂訓」など、多くの聖書の句がおさめられている。研究ノート的な位置付けと考えられており、篤胤は公表しなかった。その事により後世まで残存したのかとも思料される。 『古史成文』 代表的著書。未完。1811年(文化8年)に初稿ができ、刊行は1818年(文政元年)。全15巻の予定のうち、3巻(神代上中下)が刊行。『古事記』『日本書紀』をはじめ、『古語拾遺』や『風土記』などの古典が伝える神話を取捨選択し、篤胤独自の価値観に基づいて主観的に再構成したもの。推古天皇の代まで書かれる予定だった。草稿として7巻分(神功皇后まで)までが残っている。 『古史徴』 代表的著書。1811年(文化8年)に草稿がなる。刊行は1819年(文政2年)。全4巻。1巻は「開題記」「春」「夏」「秋」「冬」と銘打たれた論考を収録。「開題記」は特に『古史徴開題記』としても知られる。「春」には神代文字に関する論考がある。2-4巻は、『古史成文』の編集の根拠が挙げられている。祝詞を重視していること、記紀のような古典だけでなく後世の諸書を活用していること、異神同一神説が多いことなどが特徴として挙げられる。 『霊能真柱』(たま の みはしら) 代表的著書。1812年(文化9年)成稿。1813年(文化10年)刊行。人間の死後の魂の行方を論じた書物。これをもって篤胤の学問の成立とする。服部中庸の『三大考』の影響を受けて、同書にならって、世界の成立の過程を図をまじえながら解説する。天動説・地動説を考慮している。先妻織瀬の死んだ年に完成。この書が出て以降、復古神道で死後の世界への関心が高まる。現代の神道系諸宗教に与えた影響は計り知れない。 『古道大意』 上下2巻。1811年(文化8年)に刊行。記紀神話による古道を理論的・体系的に解説。地動説的天体論を唱え皇産霊神を最高位の神として神話の真実性を説く。 『古史伝』 代表的著書。1812年(文化9年)起稿。全37巻。本居宣長の『古事記伝』の形式にならって、自著『古史成文』を一段ずつ自ら注釈している。1814年(文化11年)に8巻まで刊行。生前に28巻が刊行される。全巻の刊行は1911年(明治44年)で、平田鐵胤の依頼で矢野玄道が篤胤の残した草稿を仕上げた。 『仙境異聞』 代表的著書。全2巻。1822年(文政5年)刊行。神仙界を訪れ、呪術を身に付けたという寅吉からの聞書きをまとめたものである。寅吉は7歳のときに杉山僧正に伴われて、常陸の岩間山に行き、修行して幽冥界に行き、外国も廻ったと主張し、呪術を操って江戸で評判となった。このことを聞いた篤胤は最初に寅吉を保護していた山崎美成のもとから半ば強引に自分の家に連れてきて数年間住まわせた。篤胤は神仙界に住むものたちの衣食住・祭祀・修行・医療・呪術などについて、くまなく質問をして、その内容をこの本に収めた。当時この本は平田家では門外不出の厳禁本であり高弟でも閲覧を許されないといわれていた。 以前から異境や隠れ里に興味を抱いていた篤胤は、寅吉の話により、幽冥界の存在を確信した。篤胤は寅吉を説得して幽冥界で寅吉が見た師仙の神姿を絵師に描かせ、その絵を家宝として大事にした。寅吉が幽界に帰る際には、杉山僧正が住むという信濃国浅間山の隠れ里の山神に対して、篤胤がしたためた手紙と自著『霊能真柱』、神代文字への質疑文を、寅吉に託して献上したという。同書には、これら一切の経緯と山神や寅吉に手向けた和歌なども収められている。山神の図は現在東京代々木の平田神社で大切に保管され、滋賀県大津市近江神宮定例の山神祭で祭られている。 『勝五郎再生記聞』 代表的著書。1822年(文政5年)刊行。死の世界から蘇った少年のことを取材してまとめたもの。多摩郡中野村(現:東京都八王子市東中野)の百姓源蔵の次男の勝五郎(9歳)が、自分は多摩郡程窪村(現:東京都日野市程久保)の百姓久兵衛の息子の勝蔵の生まれ変わりであるといった。1810年(文化7年)に6歳で死んだが、幽冥界で産土神である熊野権現(日野市南平8丁目の熊野神社か。)に会って、今の家に再生したと彼は言う。篤胤はその再生を大国主の幽冥事を分掌している産土神の計らいだと解釈した。 『稲生物怪録』(いのう もののけ ろく) 全4巻。1806年(文化3年)に刊行。稲生武太夫がもののけを退治する絵巻物。篤胤の著作ではなく、4つの異本から校訂した。序文を記す。 『古今妖魅考』 全7巻。1821年(文政4年)に刊行。『本朝神社考』の中の天狗に関する考察に共鳴して執筆した。天堂と地獄が幻想に過ぎないことを説いた。
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