主な否定説
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両少尉と同じ大隊(歩兵9連隊第3大隊)の大野少尉(第3大隊第9中隊第1小隊)陣中日誌に拠り東中野修道が検証 大野少尉陣中日誌と解説日付行跡解説12月2日13:45丹陽停車場(城外)を占領、更に追撃、新豊駅裏高地にて一晩中交戦す 丹陽に入らず、22:00丹陽東門を占領したのは20連隊第4中隊 12月3日7:00大隊は出撃す、敵影なし、村落を占領、一夜を明かす 朝第4中隊は大隊と共に丹陽城内を掃蕩 12月5日白許崗、殷巷、大隊は買岡里に進出、ここにて一泊す 句容に向かわず、北西に進み丘陵地帯へ、5日夜(夕?)20連隊第1中隊が句容を占領 12月11日霊谷寺より(下って)山腹に。迫撃砲射撃を盛に受く、一晩中壕中にて射撃猛烈なり 第3大隊は中山陵よりも低い地点にいた、上から射撃され苦戦、敗残兵は出ていない 当時、向井少尉は、丹陽の砲撃戦で負傷して前線を離れ、「百人斬り競争」に参加することは不可能であったという証言をおこなった。鈴木明宛に衛生兵T氏の手紙があり、「向井少尉の負傷は事実で」負傷後の行動も具体的に書かれている。名誉棄損訴訟の判決は、富山大隊長の受傷証明書は事後に提出された、犬飼総一郎手記は具体性に欠けるとし、証拠能力を否定して負傷を認めない。がT氏の手紙には言及していない。(ただし、この主張はケガにより前線を離れる事があったならば当然直属の部下である田中金平の手記にそのことがある筈とする判決理由に抗せるようなものと思えない。また、百人斬り競争1年半後の報道でも、向井自ら出征以来病気もケガもしたことがないと語っている。) 銃器が発達した近代の陸上戦闘では、白兵戦における個人の戦果を競うという概念はほぼない。 向井少尉は砲兵隊の小隊長であり、野田少尉は大隊の副官であった。両者とも所属が異なり、最前線で積極的に白兵戦に参加する兵科ではない。さらに、兵科の違う2人が相談して「何らかの戦果を競争する」ことは不自然である。また、向井少尉には軍刀での戦闘経験はない。2少尉と浅海記者の会見に居合わせ、2少尉の写真を撮影した東京日日新聞カメラマンの佐藤振寿は、1994年5月に『産経新聞』紙上で、「修羅場になったら(野田少尉が務める)大隊副官は大隊長の命令指示を受けて、何中隊はどうする、と命令を下してなくちゃいけないわけです。(向井少尉が務める)歩兵砲の小隊長は『距離何百メートル、撃てーッ』とやってなくちゃいけない。それなのにどうやって勘定するの。おかしいなと私は思ったんですよ」と証言している。 戦時報道は、言うまでもなく、両少尉の証言は戦意高揚、武勇伝としてのものである。 仮に抜刀による戦闘が実際あったとしても、民間人を殺害させ、勝者には賞が出されるという「殺人ゲーム」のようなものは、東京日日新聞の記述とは全く異なるものである。 東京日日新聞などの記事では、野田少尉と向井少尉が戦場で「百人斬り競争」を始め、その途中経過を記者らに逐次伝えたことになっているが、野田が戦後残した手記によると、二人は1937年秋に無錫で東京日日新聞の記者から「ドウデス無錫カラ南京マデ何人斬レルモノカ競争シテミタラ。記事ノ特種ヲ探シテヰルンデスガ」と持ちかけられ、向井が冗談のつもりで応じると、記者は「百人斬競争ノ武勇伝ガ記事ニ出タラ花嫁サンガ殺到シマスゾ」「記事ハ一切記者ニ任セテ下サイ」と述べた。2少尉と記者は無錫で別れ、野田少尉によれば、件の記者と再会した時には、既に「百人斬り競争」の記事が日本で話題になっていたという。 向井少尉が昭和15,6年頃、母校の京城公立商業学校を訪れた際、「校長から『生徒達に是非百人斬りの話を』とすすめられたが、何故か固辞して語らなかった」、と共に訪れた同級生・田辺の証言がある。 3年後向井中隊長の直属の部下になった宮村喜代治は、昭和15年の秋頃広東で向井中隊長から「あれは冗談だ」「冗談話を新聞記事にしたんだ」「冗談が新聞に載って、内地でえらいことになった」と聞いた。その旨、裁判でも陳述書にしている。報道陣は第一線までは来ず、突撃演習が実戦として放映されたことがあるが悪い気はしなかった、とも語っている。 当時向井少尉の直属の部下だった田中金平は、阿羅健一の取材[要出典]に1983年頃次のように答えたとされる。「まわりの兵隊達もその話は知っていました。しかし誰も信用していません」「無錫から南京にいくまでほとんど私の側にいました。この間、小隊長が刀を抜いたのを一度も見ていません」「我々の周りに中国兵などいません」。 2人とも丹陽にも句容にも入城していない、中山陵を見下す地点に行っていない。『記事は一切記者に任せてください』どおり、記事は創作。13日記事の写真が11月29日(または30日)に撮影したものなのは、3者が会っていなかったから。 第3報(12月6日)を掲載した「記事の隣の記事は、浅海記者が同じ12月5日に丹陽で取材した記事であり、丹陽で取材しているはずの浅海記者がはるか離れた句容で2少尉から『百人斬り競争』の結果を取材したことになり、全くありえない」。浅海記者はその後も丹陽にとどまり、12月10日鈴木記者と合流したことが戦後の東京裁判尋問調書で知られる。この点からも「12月5日の句容(丹陽の先)での記事は虚偽である」。さらに、検事から『1937年12月5日の記事の執筆者はあなたですか』と質問され『はい。私がこの記事の執筆者です』と答えている。これにより記事は光本記者ではなく、浅海記者が書いたものと確認された。 「毎日新聞社自身、毎日新聞が平成元年3月5日に発行の『昭和史全記録』の中で、百人斬りに触れ、『この記事は当時、前線勇士の武勇伝として華々しく報道され、戦後は南京大虐殺を象徴するものとして非難された。ところがこの記事の百人斬りは事実無根だった』と書いている」。 「(軍隊では)ボク・キミ・アナタ・ワタシ等は絶対に口にできない禁句に等しかった」、「一人称代名詞は原則として使ってはならず・・・使う場合は『自分』であって、他の言葉は使えない」、「軍隊語の二人称代名詞は俗説では貴様だが・・・私自身、将校同士が貴様と言い合った例を知らない」、貴公のはず。山本七平は自身の将校経験から会話文を分析する。軍隊ではこれを叩き込まれ、三カ月もすれば反射的に軍隊語が出てくるという。 本多はこの論争を『死人に口なし』、『今後相手はご免被る』と一方的に打ち切った。
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