主な否定説とは? わかりやすく解説

主な否定説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 02:07 UTC 版)

百人斬り競争」の記事における「主な否定説」の解説

少尉と同じ大隊歩兵9連隊第3大隊)大野少尉第3大隊第9中隊第1小隊陣中日誌拠り東中野修道検証 大野少尉陣中日誌解説日付行跡解説12月2日13:45丹陽停車場(城外)を占領、更に追撃新豊駅高地にて一晩中交戦丹陽入らず22:00丹陽東門占領したのは20連隊第4中隊 12月3日7:00大隊出撃す、敵影なし、村落占領一夜を明かす 朝第4中隊大隊と共に丹陽城内掃蕩 12月5日白許崗、殷巷、大隊は買岡里進出、ここにて一泊す 句容に向かわず北西進み丘陵地帯へ、5日夜(夕?)20連隊第1中隊が句容を占領 12月11日霊谷寺より(下って)山腹に。迫撃砲射撃を盛に受く一晩中中に射撃猛烈な第3大隊中山陵よりも低い地点にいた、上から射撃され苦戦敗残兵出ていない 当時向井少尉は、丹陽砲撃戦負傷して前線離れ、「百人斬り競争」に参加することは不可であったという証言おこなった鈴木明宛に衛生兵T氏の手紙があり、「向井少尉負傷事実で」負傷後の行動具体的に書かれている名誉棄損訴訟判決は、富山大隊長受傷証明書事後提出された、犬飼総一郎手記具体性欠けるとし、証拠能力否定して負傷認めない。がT氏の手紙には言及していない。(ただし、この主張ケガにより前線離れる事があったならば当然直属部下である田中金平の手記にそのことがある筈とする判決理由に抗せるようなものと思えないまた、百人斬り競争1年半後の報道でも、向井自ら出征以来病気ケガしたことがないと語っている。) 銃器発達した近代陸上戦闘では、白兵戦における個人戦果競うという概念はほぼない。 向井少尉砲兵隊小隊長であり、野田少尉大隊副官であった両者とも所属異なり最前線積極的に白兵戦参加する兵科ではない。さらに、兵科の違う2人相談して何らかの戦果競争する」ことは不自然である。また、向井少尉には軍刀での戦闘経験はない。2少尉浅海記者会見居合わせ、2少尉写真撮影した東京日日新聞カメラマン佐藤振寿は、1994年5月に『産経新聞紙上で、「修羅場になったら(野田少尉務める)大隊副官大隊長命令指示受けて、何中隊どうする、と命令下してなくちゃいけないわけです。(向井少尉務める)歩兵砲小隊長は『距離何百メートル撃てーッ』とやってなくちゃいけない。それなのにどうやって勘定するの。おかしいなと私は思ったんですよ」と証言している。 戦時報道は、言うまでもなく、両少尉証言戦意高揚武勇伝としてののである。 仮に抜刀による戦闘実際あったとしても、民間人殺害させ、勝者には賞が出されるという「殺人ゲームのようなものは、東京日日新聞記述とは全く異なるものである東京日日新聞などの記事では、野田少尉向井少尉戦場で「百人斬り競争」を始め、その途中経過記者らに逐次伝えたことになっているが、野田戦後残した手記によると、二人1937年秋に無錫東京日日新聞記者から「ドウデス無錫カラ南京マデ何人斬レルモノカ競争シテミタラ。記事特種ヲ探シテヰルンデスガ」と持ちかけられ向井冗談のつもりで応じると、記者は「百人競争武勇伝記事ニ出タラ花嫁サンガ殺到シマスゾ」「記事一切記者ニ任セテサイ」と述べた。2少尉記者無錫別れ野田少尉によれば件の記者再会した時には、既に「百人斬り競争」の記事日本話題になっていたという。 向井少尉昭和15,6年頃、母校京城公立商業学校訪れた際、「校長から『生徒達に是非百人斬りの話を』とすすめられたが、何故か固辞して語らなかった」、と共に訪れた同級生田辺証言がある。 3年後向井中隊長直属部下になった宮村喜代治は、昭和15年秋頃広東向井中隊長から「あれは冗談だ」「冗談話を新聞記事したんだ」「冗談新聞載って内地でえらいことになった」と聞いたその旨裁判でも陳述書にしている。報道陣第一線までは来ず突撃演習実戦として放映されことがあるが悪い気はしなかった、とも語っている。 当時向井少尉直属部下だった田中金平は、阿羅健一取材[要出典]に1983年次のように答えたとされる。「まわりの兵隊達もその話は知っていました。しかし誰も信用していません」「無錫から南京にいくまでほとんど私の側にいましたこの間小隊長が刀を抜いたのを一度見ていません」「我々の周り中国兵などいません」。 2人とも丹陽にも句容にも入城していない中山陵見下す地点行っていない。『記事一切記者任せてください』どおり、記事創作13日記事写真11月29日(または30日)に撮影したものなのは、3者が会っていなかったから。 第3報(12月6日)を掲載した記事の隣の記事は、浅海記者が同じ12月5日丹陽取材した記事であり、丹陽取材しているはずの浅海記者がはるか離れた句容で2少尉から『百人斬り競争』の結果取材したことになり、全くありえない」。浅海記者その後丹陽とどまり12月10日鈴木記者合流したことが戦後東京裁判尋問調書知られる。この点からも「12月5日の句容(丹陽の先)での記事虚偽である」。さらに、検事から『1937年12月5日記事執筆者はあなたですか』と質問され『はい。私がこの記事執筆者です』と答えている。これにより記事は光本記者ではなく浅海記者書いたものと確認された。 「毎日新聞社自身毎日新聞平成元年3月5日発行の『昭和史全記録』の中で、百人斬り触れ、『この記事当時前線勇士武勇伝として華々しく報道され戦後南京大虐殺象徴するものとして非難された。ところがこの記事百人斬り事実無根だった』と書いている」。 「(軍隊では)ボク・キミ・アナタ・ワタシ等は絶対に口にできない禁句等しかった」、「一人称代名詞原則として使ってはならず・・・使う場合は『自分であって、他の言葉使えない」、「軍隊語の二人称代名詞俗説では貴様だが・・・私自身将校同士貴様と言い合った例を知らない」、貴公のはず。山本七平自身将校経験から会話文分析する軍隊ではこれを叩き込まれ、三カ月もすれば反射的に軍隊語が出てくるという。 本多はこの論争を『死人に口なし』、『今後相手ご免被る』と一方的に打ち切った

※この「主な否定説」の解説は、「百人斬り競争」の解説の一部です。
「主な否定説」を含む「百人斬り競争」の記事については、「百人斬り競争」の概要を参照ください。

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