ルーツ、古葉監督時代
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「広島東洋カープ」の記事における「ルーツ、古葉監督時代」の解説
1975年 球団初の外国人監督として、ジョー・ルーツが監督に就任。「野球に対する情熱を前面に出そう」というスローガンの元、燃える闘志を表す意味をこめて球団に赤を基調とする新ユニフォームを提案するが、既にシーズン用のユニフォームは出来上がっており変更可能な帽子・ヘルメットの色だけ紺色から赤になった。 しかし開幕早々の4月27日の対阪神戦において佐伯和司の投球判定を巡って猛抗議、試合のボイコットを起こす騒動となった。この時、重松良典球団代表が試合続行を指示したため、試合中の介入に不満を持ったルーツは4月30日に監督辞任、5月2日までの代行にコーチの野崎泰一が就き、翌5月3日古葉竹識がコーチから監督に就任。この年のオールスターゲームの第1戦(甲子園)では山本浩二と衣笠祥雄が共に1試合2本塁打を記録するなど、「赤ヘル旋風」を巻き起こした。 中日と阪神と熾烈な優勝争いの末、9月10日の対中日戦(広島市民球場)では乱闘事件があったものの、10月15日の巨人戦(後楽園)に勝利し、球団創立25年目で初優勝を達成した。この時の先発は外木場義郎で、ウイニングボールを捕ったのは左翼手の水谷。結果的に2位中日と4.5ゲーム差、3位阪神と6ゲーム差と大混戦だった。長きに亘る低迷で「太陽が西から昇っても広島は優勝できない」とまで揶揄され、身売りの危機もあったがようやく「お荷物球団」を返上した。日本シリーズでは阪急ブレーブスと対戦するも4敗2分で敗退。この年の首位打者となった山本浩二や衣笠祥雄、最多勝の外木場義郎、盗塁王の大下剛史らの活躍が目立った。優勝後、平和大通りで行われた優勝パレードではファン約30万人を集めた。この年の観客動員は120万人で、球団史上初めて100万人を突破した。またこの年は春に山陽新幹線が岡山駅から博多駅まで延伸開業し、チームの遠征時の列車乗車時間が大幅に短縮された。これを振り返って、外木場は「カープが優勝できたのは新幹線のおかげ」とも語っている。 経営面では創設以来の累積赤字をこの年解消している。 1976年 池谷公二郎が20勝を挙げ最多勝と沢村賞。巨人・阪神との優勝争いに加われず当初は山本浩二の不振もあって低迷。9月は11連敗も記録。最後はかろうじて3位に。 1977年 5位に終わった。胸文字・胸番号・背番号・アンダーシャツ・ストッキングが赤一色になり、この年から“カープ=赤”が定着する。12月23日、江夏豊が南海ホークスより移籍。南海の監督だった野村克也(古葉は南海でプレーし野村と親交があった)が古葉に「(江夏は)まだ使えるよ」と太鼓判を押したという。高橋里が20勝。3年連続同一チームから最多勝投手を輩出。セでは以降なし。一方前年の最多勝池谷投手はシーズン最多被本塁打48(歴代1位)の記録も。 1978年 カープ打線が最も破壊力を発揮したシーズンで、この年のチーム205本塁打は日本プロ野球記録を更新。44本の山本浩二や、40本のヘンリー・ギャレット、33本のジム・ライトル、30本の衣笠祥雄など4人が30本以上を記録した。また打点692、得点713は、ラビットボールを使用して本塁打の増えた1948年から1950年を除いてのプロ野球最多得点であった。しかし前半戦は苦戦が続き、首位巨人に10.5ゲーム差をつけられ、5位に沈む。後半戦は投打がかみ合い、31勝13敗7分と驚異的な追い上げを見せるも、巨人を逆転して優勝したヤクルトスワローズと5ゲーム差で、何とか3位を確保するにとどまった。 1979年 開幕前から独走が予想されたが、開幕は4連敗スタート、序盤は苦戦が続いた。しかし、衣笠の死球による亀裂骨折や、高橋慶彦の33試合連続安打でチームに勢いが付き、8月になり一気に首位に立つと4年ぶり2度目のリーグ制覇。日本シリーズでは、近鉄バファローズを4勝3敗で下し、悲願の日本一を達成する。第7戦では、江夏が無死満塁という絶体絶命の場面を無失点で切り抜け日本一に導く(江夏の21球)。 1980年 この年は前年とは打って変わり序盤から首位を独走し続け、2位以下に大差をつけて球団初の連覇を達成。勢いそのままに、近鉄を4勝3敗で下し、日本シリーズ2連覇を成し遂げた。同年オフ、江夏豊と日本ハムのエース高橋直樹との大型トレードが成立。 1981年 この年は、序盤から苦戦が続き、期待の高橋直樹がわずか2勝、一時は最下位に沈むなど、8月終了時点で46勝48敗6分の4位と、首位巨人に12.5ゲーム差をつけられる。9月に15勝3敗と驚異的な追い上げを見せるも、優勝した巨人と6ゲーム差の2位に終わり、3連覇を逃す。 1982年 山本が無冠に終わるなど打線が振るわず、結果は4位に終わる(1980年代唯一のBクラス)が優勝した中日に11勝9敗6分と勝ち越した。オフにテコ入れとして福士敬章、内田順三、金田留広らに戦力外通告、水沼四郎を中日へトレード、水谷実雄と阪急ブレーブス・加藤英司との大型トレードを敢行するなどV戦士放出を敢行。北別府学が初の最多勝、津田恒美が活躍し、球団初の新人王を獲得。 1983年 7月終了時点まで巨人と首位争いを演じるも、8月に4連敗を2度喫するなど5勝14敗1分と失速、優勝した巨人と6ゲーム差の2位に終わる。 1984年 4月に12連勝を記録するなど、14勝2敗2分と開幕ダッシュに成功する。その後、中日の猛追にあい、首位を明け渡すと、8月終了時点で中日と1ゲーム差の2位となる。しかし、9月6日の阪神戦に勝利し、首位に返り咲くと、そのまま逃げ切り、4年ぶりのリーグ優勝。山本、衣笠に加え山根和夫、北別府学、大野豊ら投手が活躍。この年75勝を挙げたが、これは2016年に更新されるまで球団シーズン最多勝記録だった。西武から復帰の小林誠二が最優秀防御率。小早川毅彦が新人王。日本シリーズでは阪急ブレーブスと対戦し、4勝3敗で3度目の日本一になった。日本一になっている球団を倒しての日本一はこの年が唯一である。チームはこの年以降、日本一には1度もなっておらず、2021年現存する12球団の中で最も日本一から遠のいている。 1985年 サウスポーの高木宣宏がブレイクしオールスター前までに9勝を挙げるも後半不調に陥る。2年目の川端順が新人王。高橋慶彦が5年ぶり3度目の盗塁王。8月まで阪神、巨人と優勝争いを演じていたが、9月に阪神との直接対決に連敗し、7連敗を喫するなど失速し、最終的には優勝した阪神と7ゲーム差の2位に終わる。この年優勝した阪神には15勝11敗、同じく優勝争いをした巨人にも14勝12敗と勝ち越したものの、阪神が17勝6敗3分と大きく勝ち越した大洋に対し10勝14敗2分と負け越したのが響いた。古葉がこの年限りで監督を勇退した。同年、松田元がオーナー代行に就任している。
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