赤ヘル旋風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:57 UTC 版)
詳細は「広島東洋カープ#球団の歴史」を参照 カープの帽子。1975年当時は予算の関係から帽子とヘルメットしか赤にすることが出来なかった。当時は赤を使うチームは珍しかったことから、勝ち星を重ねるうちに世間はカープのことを「赤ヘル軍団」と呼ぶようになった。 蹴球協会から離れ東洋工業にもどり経理部長を務めたあと、西野襄の後を受け1974年広島東洋カープ球団代表に就任した。 重松は三原脩に密かに会い、プロ野球球団経営について学んだ。二軍の合宿の貧相な食事に驚いた重松は「若い選手にどんどん食べさせないとダメだ」とその足で銀行に行き自宅を担保に金を借りて合宿所にぶち込んだ。その金で球団職員の給料もよくした。 1974年ジョー・ルーツをコーチに採用したのは、のちに監督をやらせるつもりだったという。1975年重松と根本陸夫元カープ監督の2人は共にルーツがチームを劇的に変える人材として認識し、根本が次のカープ監督として松田耕平オーナーに推薦したことから、日本球界では初のメジャーリーグ出身外国人監督となるルーツ監督就任が決定した。重松がルーツを監督にしたかった理由は、負けても悔しがらない選手の顔が我慢ならず闘争心を持ち合わせるルーツが変化をもたらせることを期待したことと、「日本人にはコンプレックスがあって外国人の言う事はよく聞いた」ため。しかし賛同する者は誰一人なく、監督を「城主」コーチを「城代」に例え「城代ならいいが、城主に外国人というのは納得がいかない」と反撥を受けた。 重松はルーツの要望により実務者として動く。レギュラークラスの安仁屋宗八・大石弥太郎・白石静生などをトレードに出し、逆に大下剛史・宮本幸信・児玉好弘・渡辺弘基などをトレードで獲得するなど7人放出し7人獲得した。またリッチー・シェーンとゲイル・ホプキンスの現役メジャーリーガーを獲得、スタッフも入れ替え一新させた。さらにルーツはチームカラーを紺色から燃える闘志を表す赤色への変更を要望した。それも含めて重松はほぼすべて要望に応えた。チームは大きく生まれ変わったものの当のルーツは1975年4月27日の佐伯和司投手のボール判定からの審判への暴行に端を発し辞任している。 ルーツ退団後、現場スタッフの意見を取り入れ古葉竹識コーチを次の監督として松田オーナーに推薦した。古葉監督のもと、カープは悲願のセ・リーグ初優勝を果たす。また球団が抱えていた創設以来の累積赤字を一挙に解消した。その後も平山智がスカウトしたジム・ライトルやヘンリー・ギャレット獲得、江夏豊らのトレードを敢行し戦力を整え、在任中3度のリーグ優勝と2度の日本一(1975年リーグ優勝・1979年日本一・1980年日本一)、カープの黄金時代をもたらした。 こうしたことから「赤ヘル旋風の影の仕掛人」とも言われている。グラウンドに立ついかり肩の重松を見ていつしか「やっこ凧さん」と親しみを込めて呼ばれるようになったという。1981年末に辞任、後任は野崎泰一となった。
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