ヤギェウォ朝とは? わかりやすく解説

ヤギェウォ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:12 UTC 版)

ポーランド」の記事における「ヤギェウォ朝」の解説

王朝変わり、ルートヴィクの時代に入ると王の権威衰えた。ルートヴィク死去後の二年間空位立場の弱い女王がこれを更に加速させる1385年ポーランド女王ヤドヴィガリトアニア大公ヨガイラポーランド語名ヤギェウォ)が聖職者バロンシュラフタなどの意志のもと結婚しポーランド王国リトアニア大公国人的同君連合をした。ポーランド=リトアニア連合形成したクレヴォの合同)。1399年ヤドヴィガ女王没するとヤギェウォがポーランド王に即位し以後ポーランドリトアニアボヘミア王国およびハンガリー王国王朝であるヤギェウォ朝がポーランド統治することになった1410年ポーランド=リトアニア連合グルンヴァルトの戦いドイツ騎士団討った1414年コンスタンツ公会議ではグルンヴァルトの戦い戦後理について話し合われ会議では当時異教徒の国であったリトアニアキリスト教徒の国であるポーランド王国同盟してキリスト教徒ドイツ騎士団戦争をした点が大問題となり、これについてポーランドに対してドイツ騎士団側から激し非難があった。ドイツ騎士団は「異教徒同盟してキリスト教徒ドイツ騎士団討伐したポーランド行動は罪であり、この罪によって、ポーランド人地上から絶滅されるべきである」と主張したポーランド全権クラクフ大学校長であったパヴェウ・ヴウォトコヴィツラテン語名:パウルス・ウラディミリ)は「リトアニア人のような異教徒であっても我々キリスト教徒とまったく同じ人間である。したがって彼らは自らの政府を持つ権利国家主権)、平和に暮らす権利生存権)、自らの財産対す権利財産権)を生まれながら保有する。よってリトアニア人がこの権利行使し自衛するの(自衛権はまったく正当である」と述べた教皇マルティヌス5世異教徒人権について決定はしなかった。 1430年リトアニア大公ヴィータウタスポーランド語名:ヴィトルト)が没すると、ポーランド=リトアニア連合内はよりポーランド王の権威と権限強め事実上ポーランド王国支配下入りすべてのリトアニア貴族ポーランド語ポーランド習慣を身につけてポーランド化していった。ただし宗教宗派については、ある場所ではローマ・カトリック、ある場所ではプロテスタント、ある場所では正教会、ある場所(リプカ・タタール人共同体)ではイスラム教、といった具合それぞれの地方共同体伝統的な宗教宗派守っていることが多かったとされる1440年ドイツ騎士団領内の都市で、ポーランド王とプロイセン連合結成しポーランド王国プロイセン連合ドイツ騎士団との間で再び戦争となった1466年第二次トルンの和約によりドイツ騎士団領敗戦した。プロイセンポーランド王国封土となり、ポーランド=リトアニア連合宗主国とする属国となり、多く政治的権限ポーランド移された。ポーランドはこの第二次トルンの和約に基づきポーランド国会セイム)への代議員送ってポーランド構成するすべての地域を扱う政治いわゆる国政)に直接参加するようドイツ騎士団命じたが、騎士団拒否したヴァルミア司教叙任めぐって、これをポーランドグニェズノ大司教裁可するが、ドイツ騎士団は独自の候補擁立して意義申し立て騎士団側の候補者ヴァルミア司教にとし、今後グニェズノ大司教主権握ること和解した1543年トルン出身クラクフ大学卒業生ミコワイ・コペルニクラテン語名:ニコラウス・コペルニクス)は著書天球の回転についてDe revoltionibus orbium coelestium)』を出版地動説提唱した。彼は父親クラクフ公国出身ポーランド人取引業を営み母親ドイツ人であった。母の実家のあるトルン生まれ父母早く亡くしたあとは母方叔父ヴァルミア司教のルーカス・ヴァッツェンローデ(前の段落参照)に育てられた。なお、クラクフ大学におけるコペルニクス恩師である人気教授アルベルト・ブルゼフスキ月の軌道計算世界的に名を挙げ、月が楕円軌道描いていること、そして常に同じ面を地球向けていることを指摘している。 1569年国王ジグムント2世アウグスト幅広い尽力により、ポーランドリトアニア併合ルブリン合同)してポーランド王を統一君主とする物的同君連合制限つきながらも議会制民主主義を採る「ポーランド=リトアニア共和国」(第1共和国)となり、欧州広大な国のひとつとして君臨したジグムント2世アウグスト死後ポーランド=リトアニア連合王国すべてのシュラフタポーランド貴族)が参加する選挙国王自由選挙)によって国王決定する選挙王政」をとる貴族共和国になったポーランド貴族人数は常に人口の1割を超えており、そのすべてに平等に選挙権付与されていた。アメリカ合衆国18世紀末独立してからしばらくの間選挙権を持つ者が合衆国全人口の1割に満たなかったことを考慮すると、当時ポーランド=リトアニア連合王国ではのちのアメリカ合衆国比べ選挙権を持つ国民割合大きかったことになる。 1573年すべてのシュラフタ1人1票を持つというかなり民主的な原則行われることになったポーランド国王自由選挙選ばれ最初ポーランド国王フランス王アンリ2世イタリア人王妃カトリーヌ・ド・メディシス息子であるフランス人ヘンリク・ヴァレジアンリ、のちのフランス王アンリ3世であった。しかし国王戴冠条件として署名余儀なくされた「ヘンリク条項」によりポーランド事実上立憲君主制シュラフタ層の大幅な権力拡大および王権大幅な制限)が成立したため、バイセクシュアルであった自身性指向ポーランドでは以前からずっと白い目見られていたことや、ジグムント2世アウグストの妹ですでに年老いていたアンナ女王でなく国王とした政略結婚求められたこともあり、ポーランドでの生活を窮屈と感じ嫌気差したヘンリク1574年6月18日、突然フランスへ逐電してしまう。

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ヤギェウォ朝

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ポーランドの歴史」の記事における「ヤギェウォ朝」の解説

詳細は「ヤギェウォ朝」を参照 詳細は「ポーランドの歴史 (1385年1569年)(英語版)」を参照 1385年から1569年にかけて、ポーランドリトアニアボヘミアおよびハンガリー王朝であるヤギェウォ朝の統治下で連合王国形成した。この王朝連合創始者リトアニアヨガイラ大公であった。この4カ国の提携ポーランド人リトアニア人双方大きな利益もたらした

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