バードとマジックとは? わかりやすく解説

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バードとマジック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 00:17 UTC 版)

1979-1980シーズンのNBA」の記事における「バードとマジック」の解説

1970年代NBAにとって暗黒の時代だった。ABAとの生存競争によりリーグ全体疲弊し、各球団選手サラリー急激な上昇財政難苦しみ観客席には空席が目立つようになり、テレビ視聴率も下がる一方。さらに薬物アルコールによるスキャンダル続発しリーグイメージ極端に悪化していた。NBAスリーポイントシュートの導入など、事態打開のために様々な手を打つが、NBA真に必要だったのはリーグ牽引する救世主スーパースター登場だった。 一人1956年インディアナ州のウエストバーデンで生まれた一見何処にでもいる田舎純朴な白人少年見える彼は、しかし一度コート立てば並外れたバスケットセンスを発揮する選手で、大学進学迎える頃には有名大学からスカウトを受けるほどの名選手になっていた。彼は闘将として知られるボビー・ナイトが指導するインディアナ大学進学するが、ナイト苛烈指導学校雰囲気馴染めず、すぐに退学し一度バスケットの道を諦めた。しかしその後再び大学に戻る決意をし、インディアナ州立大学進学当時カレッジバスケ界では決して有名校とは言えなかった同大チームを、彼はカレッジバスケ最高峰であるNCAAトーナメント進出を果たすまでに押し上げる彼の名は当然NBAにも轟き、彼が大学卒業する1979年のNBAドラフト目玉となるはずだった。しかし彼の名前は意外な年のドラフトの、意外な順位指名されることとなる。1978年のNBAドラフト全体6位、それが彼の指名順位だった。彼を是が非でも欲するボストン・セルティックスレッド・アワーバックGM一計案じ、彼がインディアナ大学中退後、1年間短期大学通っていたことを目に付けインディアナ州立大学での3年間を合わせて大学プレイ資格4年間を全うしたとして、彼を強引に指名したのである。本来なら翌年の、もっと上位指名されるはずの彼は、1978年全体6位指名で東の名門当時低迷に喘いでいたセルティックス入団決まった。しかし彼はもう1年大学プレイするため、セルティックス入団1年を待たなければならない。しかしこの1年が彼、ラリー・バード後に続く新たな物語紡ぎだすこととなる。 もう一人バード3年遅れること1959年ミシガン州州都ランシング生まれた陽気な黒人少年だった彼、アーヴィン・ジョンソン・ジュニア優秀なバスケット選手という点以外は、性格やプレイスタイル、あらゆる点でバードとは対照的だった見栄えのする彼の鮮やかなプレイ人々魅了するようなり、彼が2年生ときにはある試合36得点18リバウンド16アシスト10スティールクアドルプル・ダブル記録その時取材訪れていた地元記者から"マジック"というニックネーム与えられた。高校4年生だった彼が高校チームを州チャンピオン導いた同じ年、NBA一つトレードが行われた。ロサンゼルス・レイカーズゲイル・グッドリッチニューオーリンズ・ジャズトレード出したのである。すでにベテランの域に達し成績落ち始めていたグッドリッチトレードは、当時それほど注目されたものではなかったが、この時レイカーズ対価として得たものが、将来非常に大きな意味を持ってくるジョンソン高校卒業ミシガン州立大学進学当時低迷していた同校を彼は前季の1215敗から25勝5敗と大躍進させた。彼の名はアーヴィン"マジック"ジョンソンマジック・ジョンソンとして全米知れ渡るようになったそれまで殆ど接点無かったバードとマジックを結びつけたのが、1979年NCAAトーナメントである。バード加わって4年目インディアナ州立大学シーズン33全勝終えるほどの勢い誇り2年目マジック在籍するミシガン州立大学トーナメント優勝候補となっていた。メディアは当然のように両チームエース目を付け選手としても一人青年としても見事に対照的な2人集中的に取り上げた結果2人試合では一度対戦したとがないにも関わらずライバルとして全米のバスケットファンに認知されることとなり、決勝トーナメント異常なほどの注目集めた。そしてあたかも筋書き通りあるかのように、2人トーナメント決勝相対したのである試合は75-64でミシガン州立大勝利しバードマジック最初対決マジック軍配挙がった全米向けて放送されテレビ中継視聴率は、NCAA史上最高の38%を記録し、現在も破られていない。 もしバードアーリーエントリーし、1978年ドラフト指名そのままセルティックス入団していたならば、この決勝での対決はなく、バードマジックライバル関係成立し得なかった。その意味NBAは非常に運が良く、また何よりNCAAトーナメント決勝という当時NBAファイナル遥かに凌ぐアメリカバスケ界最高の舞台でバードマジック全米向けてアピール出来たことが大きかったバードマジックNBAそのまま持ち込むことにより、彼らが全米から集めた注目を、そのままNBA引き込むことが出来たからである。しかしそれには1979年のNBAドラフトアーリーエントリーしたマジック・ジョンソンが、どのチーム入団するかが重要だった。すでにバードセルティックス入団決まっており、マジックが東の名門セルティックスライバル相応しチーム入団することが、NBAにとっては最上のシナリオだった。 そしてマジック全体1位指名したのがロサンゼルス・レイカーズだった。西の名門セルティックス永遠ライバルであるレイカーズへの入団は、NBAにとっては他にない最高の選択だった。前季の成績4735敗、リーグ6位タイ成績だったレイカーズ全体1位指名得られたのは、遡ること3年前1976年ガイル・グッドリッチトレード関係してくる。この時、ジャズから対価として得たのが、将来ドラフト指名だった。前季2656敗で見事にリーグ最下位となったジャズ獲得したドラフト1位指名を、レイカーズまんまと手中に収めマジック指名したのである。なお、レイカーズはこのシーズン中にもクリーブランド・キャバリアーズとのトレードでドン・フォードとの交換で、1982年1巡目ドラフト指名獲得している。これが後に一世を風靡する"ショータイム・バスケット"の完成に繋がる。 あらゆる幸運重なってバードマジックという1980年代最高のライバル関係確立された。2人NBA入り以後リーグ全体はこの2人支配するようになり、80年代ファイナルバードセルティックスと、マジックレイカーズいずれかが必ず出場しファイナルでのセルティックスレイカーズ直接対決は、80年代NBA最高のカードとなったNBA入ってさらに加熱した両者ライバル関係は、当時霧散していたNBAへ注目一気引き戻すことに成功し、さらにどん底沈んでいたNBA人気かつてないほどに高めることとなる。 NBAにとってバードとマジックは、まさに救世主だった。

※この「バードとマジック」の解説は、「1979-1980シーズンのNBA」の解説の一部です。
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