バード、パリッシュ、マクヘイルの "ビッグスリー" 体制とは? わかりやすく解説

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バード、パリッシュ、マクヘイルの "ビッグスリー" 体制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:05 UTC 版)

ボストン・セルティックス」の記事における「バード、パリッシュ、マクヘイルの "ビッグスリー" 体制」の解説

セルティックスに再び黄金期訪れるのは1980年代入ってからだった。1978年ドラフト指名したラリー・バードは翌1979年よりチーム参加、翌シーズンセルティックスケビン・マクヘイルロバート・パリッシュ同時に獲得。この3名は史上最強フロントライン評価されチーム牽引したセルティックス1980年代NBAロサンゼルス・レイカーズとともに覇を競い1981年1984年1986年リーグ制した。特に1984年1985年1987年には両チームNBAファイナル直接対決したシーズンだった。 1979-1980シーズンは、ルーキーシーズンのバードチーム成績前年2953敗から6121敗まで引き揚げるのに大い貢献しルーキー・オブ・ザ・イヤー新人王)に選ばれた。また新人ながらオールNBAファーストチーム選出された。この年プレイオフでは、セルティックスカンファレンス・ファイナルフィラデルフィア・セブンティシクサーズ対戦し、1勝4敗で敗退した優勝したのはロサンゼルス・レイカーズで、バード大学時代からのライバルマジック・ジョンソンファイナルMVP選ばれた。 1980-1981シーズンに、ロバート・パリッシュトレードで、ケヴィン・マクヘイルをドラフト獲得し、フロントコートに更に厚みを増しレギュラーシーズンリーグ1タイ6220敗で終えたプレイオフ進みシカゴ・ブルズスイープ退け、セブンティシクサーズを7戦で下してNBAファイナル進出したNBAファイナルではモーゼス・マローン率いヒューストン・ロケッツ対戦した競った展開となったシリーズ第1戦の第4クオーターで、バードは、ジャンプショット放ち外れると見切ると、自身ベースライン右手駆け出しリング弾かれボール空中取りそのままシュートし決めと言う後に有名になるプレー見せた。この試合セルティックス9895でものにし、シリーズ全体も4勝2敗で制したセルティックス5年ぶりに王者返り咲いた。 1981-1982シーズンリーグ最高の6319敗の成績をあげ、次の1982-1983シーズンには5626敗とリーグ3位となった。しかしプレイオフではセブンティシクサーズやミルウォーキー・バックス敗れてNBAファイナル進出果たせなかった。1982年レイカーズ1983年はセブンティシクサーズが優勝した1981年優勝した時、しばらく連覇できるだろうと思われたが、現実にはカンファレンスライバルだったセブンティシクサーズに行く手阻まれマジック・ジョンソンレイカーズには開けられていた。 .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}"ビッグ・スリー/The Big 3" ケビン・マクヘイル ロバート・パリッシュ 1983-1984シーズン6220敗で、リーグ最高の成績となり、バードシーズンMVP選ばれた。プレイオフではワシントン・ブレッツニューヨーク・ニックスバックス下してNBAファイナル進出した一方ウエスタン・カンファレンスからはレイカーズ勝ち上がったボストン行われたシリーズ緒戦レイカーズカリーム・アブドゥル=ジャバー活躍もあり、109115敗れた。続く第2戦ではジェームズ・ウォージー活躍により終盤レイカーズリードを奪うが、ジェラルド・ヘンダーソンスティールにより試合延長入り、これをものにしたセルティックスシリーズを1勝1敗のタイ持ち込んだロサンゼルス舞台移した第3戦、マジック・ジョンソンNBAファイナル記録となる21アシストマークしセルティックス104137大敗喫した試合後、普段言葉少なバードが、自分とチーム強く批判した。第4戦で、バード発言鼓舞されセルティックス奮闘した。マクヘイルがレイカーズカート・ランビス転倒させたこと、バードアブドゥル=ジャバー接触などで乱闘寸前になるほど荒れた試合となったが、終盤マジック・ジョンソンミス繰り返し試合シリーズ2度目の延長突入したセルティックス延長制しシリーズは再びタイとなった。続く第5戦、熱波襲われボストンでの試合で、バードフィールドゴール20本中15成功させ、34得点マークセルティックス3勝目上げたロサンゼルス行われた第6戦では、アブドゥル=ジャバー活躍などでレイカーズ勝利シリーズは3勝3敗のタイ持ち込まれた。ボストンでの最終第7戦では、セルティックスの各選手活躍し111102セルティックス勝利した。 1984-85シーズンは昨シーズンをさらに上回るリーグ最高の6319敗の成績終え、前シーズン雪辱燃えていたレイカーズリーグ2位の6220敗の成績残した両チームプレイオフ勝ち上がり2年連続NBAファイナル対戦したセルティックス緒戦大勝したものの、その後一進一退の攻防となったボストン行われた6試合目を100111落とし、4勝2敗でレイカーズ優勝決まったセルティックスホーム優勝奪われるのはチーム史初めてのことだった。 1995年往年の栄光の時代コートボストン・ガーデンからフリート・センター(現在は、TDバンクノース・ガーデン)に本拠地移したボストン・ガーデンの床は現在のアリーナに移設されている。 1985-1986シーズン開幕前にかつての最強センタービル・ウォルトン獲得したバード、ケヴィン・マクヘイル、ロバート・パリッシュ加えセルティックスのフロントコートはさらに厚みを増したシーズンに入るとセルティックス快進撃続け人々はこのチーム史上最強と呼ぶようになったシーズン成績6715敗で、勝率は8割を超えたホーム戦の40勝1敗、勝率97.6%はNBA史上最高成績である。シーズン終了するバードシーズンMVP選ばれた。3年連続シーズンMVP獲得ビル・ラッセルウィルト・チェンバレン次いで史上3人目であり、センター以外の選手ではバード初めであったプレイオフNBAファイナルまで11勝1敗の成績勝ち上がりロケッツ対戦した。6試合渡ったファイナルで、4勝2敗でロケッツ下しバードファイナルMVP選ばれた。 1986-1987シーズンビル・ウォルトン出場試合数怪我のため10試合とどまりチーム5923敗でリーグ2位だった。プレイオフ1回戦ブルズを3勝0敗で一掃したものの、続くカンファレンス・セミファイナルでは合計3回延長含めて7戦までもつれて際どい勝利となったカンファレンス・ファイナルでは、成長著しデトロイト・ピストンズ対戦したボストン行われた最初の2戦ではセルティックス勝利デトロイト行われた続く2戦はピストンズが勝ちを収め、2勝2敗のタイシリーズ第5戦の舞台は再びボストン移ったピストンズ107106リードして試合終了まで残り数秒という時点でピストンズボールのスローインとなったが、アイザイア・トーマスインバウンズパスバードインターセプトし、最後デニス・ジョンソンゴール決めて土壇場逆転果たしセルティックスの3勝2敗となった。このスティールは、1965年ジョン・ハブリチェック1984年ジェラルド・ヘンダーソンスティールとならび、ボストン・セルティックス歴史上有名なスティール一つとなった。続く2試合それぞれホームチーム勝利しセルティックスNBAファイナル進出4年間で3度目レイカーズとの対戦となったNBAファイナルでは、ロサンゼルス行われた最初の2戦をレイカーズ勝利。続くボストンでの3戦目をセルティックス勝利した。第4戦の終盤残り12秒時点バードスリーポイントシュートによりセルティックスリードを奪うが、コート外出たボールマジック・ジョンソン中央進め、フックシュートを放ち残り2秒でレイカーズが再逆転した最後の瞬間バード放ったシュートリングから落ちシリーズセルティックスの1勝3敗となった。続く第5戦はセルティックス大勝したものの、ロサンゼルス戻った第6戦をセルティックス落としレイカーズ優勝決まったバードセルティックスNBAファイナル進んだのはこの年最後であり、バードとマジック優勝争ったのはこれが最後となった。 1987-1988シーズンには、バード筆頭主力年齢上がっていた。そして、ビル・ウォルトンまでもが怪我のためシーズン全試合欠場するなど、怪我が目立つようになったプレイオフカンファレンス・セミファイナルで、ホークス対戦最終第7戦までもつれる展開となったバードは第7戦前記者たちに勝利を公約しホークスドミニク・ウィルキンス47得点挙げるが、バードは第4クオーターだけで20得点挙げ118116カンファレンス・ファイナル駒を進めたカンファレンス・ファイナルではピストンズ対戦し合計3回延長を含む6試合の末、敗れた。 1988-1989シーズンバードがかかとに出来た骨の突起除去する手術を受け、出場試合は6試合とどまりシーズン成績4240敗に終わりバード欠いたチームプレイオフ1回戦ピストンズに3敗しシーズン終了したプレイオフでは1回戦インディアナ・ペイサーズ対戦し3勝2敗で辛勝したものの、続くカンファレンス・セミファイナルではピストンズに2勝4敗で敗退したシーズン後バード背中の手術を受けた1991-1992シーズンプレイオフカンファレンス・セミファイナルクリーブランド・キャバリアーズに3勝4敗で敗退しバード最後のシーズン終わったこの年の夏、ドリームチーム一員としてバルセロナオリンピック出場した後、バード引退発表したバード1992年に、マクヘイルは1993年引退しパリッシュ1994年退団すると、将来嘱望されていたレジー・ルイス急死したこともあり勝率5割を下回る低迷期入った

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