コミッショナー就任と80年代の変革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 06:01 UTC 版)
「デビッド・スターン」の記事における「コミッショナー就任と80年代の変革」の解説
1984年の2月、コミッショナーを退いたオブライエンの後を継ぎ、スターンがコミッショナーに選出された。当初スターンが取り組んだのは、薬物の使用をリーグから排除し悪いイメージを払拭すること、そしてリーグを財政的に再建することだった。 スターン指揮下のNBAは、選手の薬物使用に関し治療の支援をするという方針を採った。リーグが提供する薬物濫用の治療プログラムに取り組む者には更生の機会を与えたが、受け入れない選手はリーグから追放された。 スターンがNBAを主導した1980年代は、スター選手に恵まれた時代でもあった。スターンがコミッショナーに就任した1984年の決勝ではボストン・セルティックスとロサンゼルス・レイカーズが対戦。両チームのエースだったラリー・バードとマジック・ジョンソンは大学時代からのライバル同志であり、両者が対決した決勝のシリーズは全米で大きな注目を集めた。 またそのシーズン終了後のドラフトでは、ロサンゼルスオリンピック金メダリストのマイケル・ジョーダンがシカゴ・ブルズに入団。ジョーダンの活躍は新たなファンの獲得に大いに貢献した。ラリー・バード、マジック・ジョンソン、マイケル・ジョーダンは海外にもファンを持つようになり、NBAは次第に国際的な知名度を高め始めた。80年代末期には日本のNHKも定期的にNBAの試合を放送するようになった。 80年代は米国でケーブルテレビが普及した時代でもあった。NBAの球団の多くは地元のケーブルテレビ局と契約し、ファンは大手ネットワークが放送しない試合を視聴できるようになった。ケーブルテレビによる試合の放送もNBA人気の底上げに貢献した。 同じ時期にスターンはNBA関連の映像等の商品化を統括するNBAエンターテインメントを設立。この会社が関わった商品のうち、初期にヒット作になったのはマイケル・ジョーダンのプレイをまとめたハイライトビデオだった。 NBA人気の高まりを受け、スターンはリーグの拡大に乗り出した。80年代末期の1988年には新設球団シャーロット・ホーネッツ(現ニューオーリンズ・ペリカンズ)が、1989年にはミネソタ・ティンバーウルブズとオーランド・マジックがリーグに新たに加わった。
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