ドル買事件と金解禁の挫折
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1931年(昭和6年)に入ると、長期にわたる低金利と取引先の破綻の影響で、経営危機に陥る中小銀行が相次いだ。大手銀行は余剰資金の投資先を求めて、「為替統制売り」を利用してドルを手に入れた上で外債などに投資を行い始めた。一方、同年4月、濱口首相が前年の狙撃で受けた傷の悪化によって政務を執り難くなり、立憲民政党総裁は若槻禮次郎に交替して、同年4月14日に第2次若槻内閣が発足した。ただ、井上は大蔵大臣に留任した。 同年5月8日、オーストリアのクレジットアンシュタルトが破綻、3日後に取引停止となった。同銀行はウィーンのロスチャイルド家の影響下にあった同国最大の銀行であり、ドイツ・イギリスの金融界とも密接な関係にあった。このため、ヨーロッパの金融市場は大混乱に陥った。日本の大手銀行は、ヨーロッパ市場における外貨調達に困難を感じるようになり、日本国内においてさらなる「為替統制売り」を利用したドル買いと海外支店への送金に走った。これを受けて、政府も為替相場の安定のために正貨の現送を強めた。この一連の動きは、為替相場を一気に円安に転じさせる大きな可能性を秘めていた。これに気づいた大手銀行や投機筋は、為替差益による利潤を狙った投機目的のためのドル買いを画策し始め、後にドル買事件(ドル買問題)と呼ばれる問題に発展していくことになる。 同年9月18日、柳条湖事件をきっかけに満州事変が勃発。さらに同年9月21日には、井上が一縷の望みを託していたイギリスも金輸出を禁止して金本位制から離脱した。井上財政の根幹である緊縮財政と金本位制維持の根拠が崩れたと見た大手銀行や投機筋は、一斉にドル買いに殺到した。このため、同年9月末までの10日間で2億4,700万円のドル為替が買われ、その結果、金解禁以来の正貨流出は6億5,000万円にも達した。その一方で、日本国内の正貨が急速に減少し、深刻なデフレの様相を見せ始めた。ドル買いの最大手は、アメリカ系のナショナルシティ銀行(現在のシティバンク)であり、36%を占めていた。これに、住友銀行(8.6%)、三井銀行(7.8%)、三菱銀行(7.2%)、三井物産(5.5%)が続いた[要出典]。世論は、大手銀行が私利私欲のためにドル買占めを行って、金輸出再禁止に伴う為替相場下落を狙っていると非難した。 井上は、こうしたドル買いに加えて、満州事変勃発以後の中国における反日感情の高まりから日本通貨の信用が低下しているという情報を受け、同年10月5日と同年11月4日に、日本銀行に対して公定歩合の引き上げ(いずれも日歩2厘ずつ)を命じドル買い資金の調達を困難にすることで大手らの金塊漁りに対抗した。さらに同年10月15日には、貿易決済の立証できないドル買いを全面禁止したが、その頃にはなお2億6千万円以上のドル買いが行われて、1ヶ月で5億円以上の金が買い占められる結果に至った。井上は、一連のドル買いを三井銀行を中心とした大手銀行の「売国的行為」と非難した。 これに対して、三井銀行の池田成彬は「三井銀行がロンドンに保有している8,000万円もの金がイギリスの金輸出禁止によって本国への引き揚げを差し止められたため、その穴埋めのためにやむなく行った行為であり、その額も4,324万円相当に過ぎない。それに日本は正貨である金輸出を認めているのに、その正貨を使ってドル買いをして何が悪いのか」と反論した。マスコミは三井銀行の粉飾決算疑惑を取り上げて三井銀行を攻撃したが、その根拠は曖昧なものであった。にもかかわらず、国民や右翼・無産政党らの反感は高まった。同年10月17日には、陸軍青年将校と右翼による「十月事件」が摘発され、同年11月2日には赤松克麿と彼が率いる社会民衆党社会青年同盟員30名が三井銀行営業部に乱入する事件が起きた。さらに右翼や左翼による他銀行襲撃の噂も囁かれた。金融引き締めが効果を示しているとみた井上は、同年12月10日に歳末を理由に同年12月15日をもって年内のドル為替を一切停止すると声明したのである。大手銀行側はここにおいて、資金面でも心理面でも追い詰められることになった。 ところが、同年12月11日に、協力内閣(民政・政友連立政権)構想を進める一方で、金輸出禁止を唱えて井上と対立していた内務大臣安達謙蔵が、党内からの孤立をきっかけに閣議をボイコットし、内閣は崩壊に至った。元老西園寺公望は、立憲民政党内が分裂含み(後に安達は国民同盟を結党)である以上、立憲政友会に政権を任せる他なしと判断して、後継に立憲政友会総裁の犬養毅を推挙した。同年12月13日、犬養内閣が発足して高橋是清が再度大蔵大臣に就任すると、その日のうちに金輸出を禁止(前回と同じ、名目上は許可制)とする大蔵省令が出されて、同年12月17日の緊急勅令によって日本銀行券の金貨への兌換は全面的に停止されて、日本の金本位制の歴史は幕を閉じることとなった。 これによって、ドル為替が総額7億5,400万円も銀行に対して売り出された一方で、為替相場は大暴落して金解禁直前に100円=49.38ドル(1ドル=2.025円)で事実上固定された状態にあった相場は、半年で30ドル(1ドル=3.333円)を割り、1年後には20ドル(1ドル=5.000円)を割り込む事態となった。これにより外債利払い負担が増加し、対策として電力連盟というカルテルが結成された。その後、政府の介入と恐慌の小康化で1934年(昭和9年)頃には100円=29ドル(1ドル=3.450円)前後で安定した。この間にドルを買い占めた大銀行が莫大な利益を上げたことは明らかであり、これが国民世論における大手銀行を抱えた財閥への非難と軍部の対外進出路線への支持に転化する一因となった。こうした中で2月・3月に起こった血盟団事件は時代を象徴していた。 緊急勅令による再禁止までに流出した金は600トンにのぼるという。ただし、日銀の正貨準備額をさかのぼると被害の正確な規模が分かる。第一次世界大戦後の最高値である大正10年の21.83億円が、まだ解禁していない昭和4年末で10.72億円に落ち込んでいる。そして再禁止の昭和6年は4.69億円である。落ち込みの激しさは、関東大震災を経た期間の方が金解禁から再禁止までの間にまさる。その震災が電力会社に外債を発行させ、利払い対策に結成された電力連盟の顧問には池田がいた。
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