スペインの参戦 1779年-1780年
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「アメリカ独立戦争の海軍作戦行動」の記事における「スペインの参戦 1779年-1780年」の解説
ヨーロッパの海域では、スペインの参戦でイギリス海峡が66隻の戦列艦を擁するフランス・スペイン連合艦隊の侵入を受けていた(1779年の無敵艦隊)。イギリスはそれに対してサー・チャールズ・ハーディのもとに35隻の戦列艦しか集められなかった。しかし、連合軍の到着は遅く、そして何もしなかった。彼らは9月早くには撤退し、イギリス商船団を妨害することすらできなかった。その間、スペイン軍はジブラルタルの包囲を固めていた。 それまでイギリス海軍は防衛に徹しており、西インド諸島を除いて具体的な損失はなかったが、勝利もなかった。1780年の戦況もおおむね同様に推移していた。イギリス政府はブレスト港やスペインの港を封鎖できるだけの力が無いと感じていたので、行動は敵の動きに対応するだけの限定的なものにとどまっていた。イギリス海峡では、フランス・スペイン連合艦隊の作戦の拙劣さによって惨事を免れた。数的には優位にあったこの連合艦隊の唯一の戦果は、東インドや西インドに軍隊を運ぶ大きな輸送船団を捕獲したことだけだった。 しかしアメリカ沿岸や西インド諸島では状況はより活発に動いていた。1779年早く、イギリスのマリオット・アーバスノット提督が北アメリカの指揮官として赴任した。フランス側はド・グッシェン伯爵が西インド諸島の支援に赴き前年デスタンが残した艦隊を引き継いだ。彼は3月に到着すると、セントルシア島のグロスアイレット湾にハイド・パーカー指揮下のイギリス小戦隊を封じ込めることができた。 スペイン参戦後の1780年、イギリスのジャマイカ総督であり総司令官だったジョン・ドーリング少将は、スペイン領ニカラグアへの侵攻を計画した。最終目的はサン・フアン川を船でニカラグア湖まで遡って、グラナダの町を占領することだった。それはアメリカにおけるスペイン植民地を実質的に分断するとともに、太平洋へのアクセスの潜在的な可能性をもたらすものだった。この侵攻は病気の蔓延と兵站の困難さのため、最終的には損失の大きな失敗に終わった。。 2月3日にジャマイカを出航したこの遠征隊は軍艦ヒンチンブルックに乗る21歳のホレーショ・ネルソン海尉に支援された、ネルソンはその船の中では最高位の士官だったが、海戦を行うには権限に限界があった。全体の指揮官は第60歩兵連隊のジョン・ポルソン大尉(地元では少佐)であり、ポルソンはネルソンの能力を認め、密接に協力し合っていた。ポルソンの指揮下には第60歩兵連隊と第79歩兵連隊が300ないし400名の正規兵、およびドーリングが起ち上げた王立アイルランド軍団の約300名からなっており、黒人やミスキート・インディアンを含み地元からの志願兵数百名も入っていた。 途中でかなり遅れが出た後に、この遠征隊は3月17日にサンフアン川を遡り始めた。4月9日、ネルソンがその軍歴では初めての白兵戦を率いてバルトラ島のスペイン砲台を占領した。さらに上流5マイル (8 km) には約150名の守備隊とそのた86名がいるサンフアン砦があり、これを4月13日に包囲した。イギリス軍はまずい計画と物資を失ったことのために大砲の弾薬と兵士の食料が尽き掛けていた。4月20日に熱帯の雨が降り始めて、兵士達がおそらくはマラリアと赤痢さらに腸チフスに罹り死に始めた。 ネルソンは初期に病気に罹った者であり、砦のスペイン軍が降伏する1日前の4月28日に船で下流に戻された。5月15日には約450名のイギリス軍援軍が到着したが、黒人やインディアンは病気や不満の故に遠征隊から逃亡した。ドーリングは援軍を集めようと主張したが、病気の蔓延が重い負担となり、11月8日に遠征が中断された。イギリス軍は出発前に砦を爆破したが、スペイン軍がその残骸を再占領した。この遠征全体で、イギリス軍は2,500名以上の者を死なせ、戦争全体でも損失の最も大きな作戦行動となった。 1780年5月、フランスのブレスト港からダルザック・ド・テルネーが7隻の戦列艦と6,000人のフランス兵を載せた船団を率いて大陸軍への協力のため出港した。彼は6月20日にバミューダ島近くでイギリスのコーンウォリスの部隊と小競り合いを演じ、7月11日にロードアイランドに到着した。 スペインは8月9日の戦闘で、イギリス商船による西および東インド諸島船団捕獲の試みを挫いた。 この年の残りと翌年の初めは、イギリス海軍はニューヨーク、フランス海軍はニューポートに本拠を置いてお互いに相手の出方を見ていた。その年も西インド諸島が重要な作戦行動の舞台となった。2月と3月に、ベルナルド・デ・ガルベス指揮下のスペイン艦隊がニューオーリンズから西フロリダを侵略し成功を収めた。1782年にはガルベスの部隊がバハマのニュープロビデンスにあったイギリス海軍基地を占領した。 1779年の末に、イギリスのサー・ジョージ・ロドニーに大きな海軍戦力が委ねられ、ジブラルタルの救援とミノルカ島への補給の任が課せられた。ロドニーは戦隊の一部とともに西インド諸島に向かうことも任務だった。12月29日、西インド諸島に向かう商船隊を保護下に置き、1780年1月7日、フィニステレ岬沖でスペインの商船隊を捕獲、1月16日、サン・ヴィセンテ岬沖で小規模なスペイン戦隊を破った(サン・ビセンテ岬の月光の海戦)。1月19日にはジブラルタルを救援し、2月13日西インド諸島に向かった。 3月27日、ロドニーはセントルシアでハイド・パーカー卿と合流した。フランスのグッシェンはマルティニーク島のフォール・ロワイヤルに撤退した。7月までロドニーとグッシェンの部隊は力が拮抗しており、マルティニーク島近くでの行動を続けた。イギリスの提督は接近戦を挑もうとしていたが4月17日の最初の遭遇戦(マルティニーク島の海戦)では、ロドニーの命令を艦長達が取り違え、決着が付かなかった。彼は敵の戦列の後部に自部隊を集中させようとしたが、彼の部下の艦長達はフランス艦隊の戦列に添って散開してしまい、攻撃の集中を欠いてしまった。5月15日と19日も接近があったが、フランスの提督が交戦を求めなかった。 スペインの戦列艦12隻からなる艦隊が6月に到着し、連合軍が数的優位に立ったので、ロドニーはセントルシア島のグロスアイレット湾に撤退した。しかし決定的なことは何も起こらなかった。スペイン艦隊は準備ができておらず、フランス艦隊は休養を必要としていたからである。スペイン艦隊はハバナに行き、フランス艦隊はサン・ドマングに向かった。7月、ハリケーンシーズンの到来により、ロドニーは9月14日ニューヨークに移動した。グッシェンは疲れ果てた艦隊を引きつれて帰国した。12月6日、ロドニーは、北アメリカのナラガンセット湾にいるフランス艦隊には何もできなかったので、バルバドスに戻った。バルバドスに残した艦隊は10月に起こった「1780年のグレートハリケーン」で壊滅的な打撃を受けていた。
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