スペインの参戦 1779年-1780年とは? わかりやすく解説

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スペインの参戦 1779年-1780年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 17:21 UTC 版)

アメリカ独立戦争の海軍作戦行動」の記事における「スペインの参戦 1779年-1780年」の解説

ヨーロッパ海域では、スペイン参戦イギリス海峡66隻の戦列艦擁するフランス・スペイン連合艦隊侵入受けていた(1779年の無敵艦隊)。イギリスはそれに対してサー・チャールズ・ハーディのもとに35隻の戦列艦しか集められなかった。しかし、連合軍到着遅く、そして何もしなかった。彼らは9月早くには撤退しイギリス商船団を妨害することすらできなかった。その間スペイン軍ジブラルタル包囲固めていた。 それまでイギリス海軍防衛徹しており、西インド諸島除いて具体的な損失はなかったが、勝利もなかった。1780年戦況おおむね同様に推移していた。イギリス政府ブレスト港やスペインの港封鎖できるだけの力が無いと感じていたので、行動は敵の動き対応するだけの限定的なものにとどまっていた。イギリス海峡では、フランス・スペイン連合艦隊作戦拙劣さによって惨事免れた数的に優位にあったこの連合艦隊唯一の戦果は、東インド西インド軍隊を運ぶ大きな輸送船団捕獲したことだけだった。 しかしアメリカ沿岸西インド諸島では状況はより活発に動いていた。1779年早くイギリスのマリオット・アーバスノット提督北アメリカ指揮官として赴任したフランス側はド・グッシェン伯爵西インド諸島支援に赴き前年デスタン残した艦隊引き継いだ。彼は3月到着すると、セントルシア島のグロスアイレット湾にハイド・パーカー指揮下のイギリス小戦隊を封じ込めることができた。 スペイン参戦後の1780年イギリスジャマイカ総督であり総司令官だったジョン・ドーリング少将は、スペイン領ニカラグアへの侵攻計画した最終目的サン・フアン川を船でニカラグア湖まで遡ってグラナダの町を占領することだった。それはアメリカにおけるスペイン植民地実質的に分断するとともに太平洋へアクセス潜在的な可能性もたらすのだった。この侵攻病気の蔓延兵站困難さのため、最終的に損失大きな失敗終わった。。 2月3日ジャマイカ出航したこの遠征隊は軍艦ヒンチンブルックに乗る21歳ホレーショ・ネルソン海尉支援された、ネルソンはその船の中では最高位士官だったが、海戦を行うには権限限界があった。全体指揮官は第60歩兵連隊ジョン・ポルソン大尉地元では少佐)であり、ポルソンネルソン能力認め、密接に協力し合っていた。ポルソン指揮下には第60歩兵連隊と第79歩兵連隊300ないし400名の正規兵、およびドーリングが起ち上げた王立アイルランド軍団の約300名からなっており、黒人やミスキート・インディアンを含み地元からの志願兵数百名も入っていた。 途中でかなり遅れが出た後に、この遠征隊は3月17日サンフアン川遡り始めた4月9日ネルソンがその軍歴では初めての白兵戦率いてバルトラ島スペイン砲台占領した。さらに上流5マイル (8 km) には約150名の守備隊とそのた86名がいるサンフアン砦があり、これを4月13日包囲したイギリス軍はまずい計画物資失ったことのために大砲弾薬兵士食料尽き掛けていた。4月20日熱帯降り始めて兵士達おそらくはマラリア赤痢さらに腸チフス罹り死に始めたネルソン初期病気罹った者であり、砦のスペイン軍降伏する1日前の4月28日に船で下流戻された。5月15日には約450名のイギリス軍援軍到着したが、黒人インディアン病気や不満の故に遠征隊から逃亡したドーリング援軍集めよう主張したが、病気の蔓延が重い負担となり、11月8日遠征中断された。イギリス軍出発前に砦を爆破したが、スペイン軍がその残骸を再占領した。この遠征全体で、イギリス軍は2,500名以上の者を死なせ戦争全体でも損失の最も大きな作戦行動となった1780年5月フランスブレスト港からダルザック・ド・テルネーが7隻の戦列艦と6,000人のフランス兵載せた船団率いて大陸軍への協力のため出港した。彼は6月20日バミューダ島近くイギリスコーンウォリス部隊小競り合い演じ7月11日ロードアイランド到着したスペイン8月9日戦闘で、イギリス商船による西および東インド諸島船団捕獲試み挫いたこの年残り翌年初めは、イギリス海軍ニューヨークフランス海軍ニューポート本拠置いてお互いに相手出方見ていた。その年も西インド諸島重要な作戦行動舞台となった2月3月に、ベルナルド・デ・ガルベス指揮下のスペイン艦隊ニューオーリンズから西フロリダ侵略し成功収めた1782年にはガルベス部隊バハマのニュープロビデンスにあったイギリス海軍基地占領した1779年の末に、イギリスのサー・ジョージ・ロドニーに大きな海軍戦力委ねられジブラルタル救援ミノルカ島への補給の任が課せられた。ロドニー戦隊一部とともに西インド諸島に向かうことも任務だった。12月29日西インド諸島に向かう商船隊保護下に置き、1780年1月7日フィニステレ岬沖でスペイン商船隊捕獲1月16日サン・ヴィセンテ岬沖で小規模なスペイン戦隊破ったサン・ビセンテ岬の月光の海戦)。1月19日にはジブラルタル救援し2月13日西インド諸島向かった3月27日ロドニーセントルシアハイド・パーカー卿と合流したフランスのグッシェンはマルティニーク島のフォール・ロワイヤルに撤退した7月までロドニーとグッシェンの部隊は力が拮抗しており、マルティニーク島近くでの行動続けたイギリス提督接近戦挑もうとしていたが4月17日最初遭遇戦マルティニーク島の海戦)では、ロドニー命令艦長達が取り違え決着が付かなかった。彼は敵の戦列後部自部隊を集中させようとしたが、彼の部下艦長達はフランス艦隊戦列に添って散開してしまい、攻撃集中欠いてしまった。5月15日19日接近があったが、フランス提督交戦求めなかった。 スペイン戦列艦12からなる艦隊6月到着し連合軍数的優位立ったので、ロドニーセントルシア島のグロスアイレット湾に撤退した。しかし決定的なことは何も起こらなかった。スペイン艦隊準備ができておらず、フランス艦隊休養を必要としていたからである。スペイン艦隊ハバナ行きフランス艦隊サン・ドマング向かった7月、ハリケーンシーズンの到来により、ロドニー9月14日ニューヨーク移動した。グッシェンは疲れ果てた艦隊を引きつれて帰国した12月6日ロドニーは、北アメリカナラガンセット湾にいるフランス艦隊には何もできなかったので、バルバドス戻ったバルバドス残した艦隊10月起こった1780年のグレートハリケーン」で壊滅的な打撃受けていた。

※この「スペインの参戦 1779年-1780年」の解説は、「アメリカ独立戦争の海軍作戦行動」の解説の一部です。
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