スペインの反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/24 00:03 UTC 版)
「フランス領テキサス」の記事における「スペインの反応」の解説
ラ・サールの任務は1686年まで秘密にされており、この年、サントドミンゴで脱走した元遠征隊員デニス・トーマスが海賊行為で逮捕された。トーマスは罪を軽減して貰うために、ラ・サールが植民地を建設し、最終的にスペインの銀鉱山を征服する計画を持っていることをスペイン人の看守に教えた。この自白にも拘らずトーマスは絞首刑にされた。 スペイン政府は、フランスの植民地がその鉱山や航海路に対する脅威になると考え、カルロス2世の戦略会議で「スペインはアメリカの心臓部に突き出されたこの棘を除くために迅速な行動を採る必要がある。遅れが大きくなれば、実現のための困難さも大きくなる。」と考えた。スペインはどこに行けばラ・サールを見つけられるか分からず、1686年に海からの1隊と陸からの2隊の遠征隊を送り植民地を突き止めようとした。これらの遠征隊はラ・サールを見つけられなかったが、リオ・グランデ川やミシシッピ川の間の地域を隈なく探した。翌年にはさらに4つの遠征隊が出て、ラ・サールを見つけられなかったが、スペインにとってメキシコ湾岸地域の地形を理解するには役立った。 1688年、スペインはさらに海から2隊、陸から1隊の遠征隊を派遣した。アロンソ・デ・レオンが指揮した陸の遠征隊がフランス植民地から脱走してテキサス南部でコアウイルテカン族と住んでいたジャン・ゲリーを発見した。デ・レオンはゲリーを通訳と案内人に使って1689年4月に遂にフランスの砦を発見した。砦とそれを取り巻く5つの原始的な家屋は廃墟になっていた。その数ヶ月前、カランカワ族が開拓地を攻撃していた。インディアンはかなりの程度の破壊の跡と、背中を撃たれた女性を含み3人の遺体を残していた。デ・レオンに同行していたスペイン人牧師が3人の犠牲者のために葬儀を行った。遠征隊の日誌作成者フアン・バウティスタ・チャパは、この破壊がローマ教皇に反抗したことに対する神の罰だと記した。教皇アレクサンデル6世がスペインに西インドの排他的権利を認めていた。砦の残骸はスペイン人によって破壊され、残されていたフランスの大砲は埋められた。スペインは後に同じ場所に砦を建設した。 1689年初期、スペイン当局はフランス語で書かれた嘆願書を受け取った。ジュマノ族の斥候がこの文書をカド族から受け取っており、スペイン人に届けるよう頼まれていた。この文書には船を描いた羊皮紙と共にジャン・ラルシュベクからの伝言が入っていた。その伝言は次のように書かれていた。 私は貴方達がどのような人であるかを知らない。我々はフランス人である。今野蛮人の中にいる。我々のようなキリスト教徒の中に居られればと願ってやまない。...神も何者も信じないこれらけだものの中にいて、もっぱら悲嘆に暮れている。紳士諸君、もし貴方達が我々を救い出してくれるならば、伝言を送ってくれさえすればよい。...我々は貴方達のもとに出頭しよう。 後にデ・レオンはラルシュベクとその仲間のジャック・グロレーを救出した。その尋問では、100人以上のフランス人開拓者が天然痘で死に、その他の者はインディアンに殺されたと語った。最後の攻撃で僅かに生き残ったのはタロンの子供達で、カランカワ族の養子にされていた。この子供達に拠れば、1688年のクリスマス頃に攻撃され、残っていた開拓者の全てが殺されたということだった。
※この「スペインの反応」の解説は、「フランス領テキサス」の解説の一部です。
「スペインの反応」を含む「フランス領テキサス」の記事については、「フランス領テキサス」の概要を参照ください。
- スペインの反応のページへのリンク