ショックの要因と推移
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「ニクソン・ショック」の記事における「ショックの要因と推移」の解説
第二次世界大戦が終りに近づいた1944年、米国ニューハンプシャー州ブレトン・ウッズに連合国44か国の各国代表が集まって締結されたブレトン・ウッズ協定は、当時のアメリカ合衆国の経済力を中心として大戦後の世界経済の運営や国際通貨の管理を前提にしていた。いずれの世界大戦でも、アメリカ本土が戦場とならず、各国への経済的支援を行いその軍事特需で富を蓄積して、戦後圧倒的な経済力を持ったアメリカが戦後の国際金融体制の中心に位置して、ドルだけが金と交換できる通貨として、他の国はドルとの交換比率を固定して、為替相場を固定することによって国際貿易を円滑にして経済活動を活発化させることが目的であった。 この協定に基づく国際金融体制をブレトン・ウッズ体制といい、アメリカが圧倒的な生産力を持って世界各国へ輸出することで稼いだ貿易黒字を源泉として蓄えた大量の金準備に裏打ちされたものであった。そして各国はブレトン・ウッズ体制の下で安定した国際貿易の利益を享受していた。戦前は通貨発行量が希少金属である金の保有量に制約される金本位制であったが、戦後は金・ドル体制とも金為替本位制とも呼ばれ、実質的には金とドルを同じ基軸として置く体制で成り立ち、1950年代は戦後の復興と科学技術の発達による経済規模の拡大、国際貿易や国際投資の拡大、社会保障政策の普及、冷戦による恒常的な軍事費増などで、財政支出の恒常的拡大が進んでいった。 やがて西欧各国が次第に経済力を回復させて、また日本も高度経済成長でアメリカ以外の各国が経済発展していく中で、アメリカの手持ちのドルが海外へ流出するようになり、金と交換できるドルの絶対的価値が揺らぎ始めるのは60年代に入った頃であった。 戦後各国が定めた通貨の固定為替レートは、アメリカを除いて、第二次世界大戦の主要な交戦国が戦争で著しく疲弊していた当時の世界の経済状況を前提に定められたレートであり、大戦直後に世界の金保有額の三分の二がアメリカに集中して、ドルの金交換に基づく固定相場制を原則としたIMF体制で成り立っていた。そして戦災から復興した国々の経済が発展するにつれて、固定為替レートは次第に各国の経済力・競争力から乖離した状況になり、50年代に入ると各国の通貨のドルに対する為替レートが英ポンドや仏フランは切り下げられ、1961年3月には西独マルクがそれまでの1ドル=4マルクが5%切り上げられるなど、その時々に応じた通貨調整を行ってきた。しかし60年代後半になると潜在的要因としてドルの凋落が見え始めていたのである。 それまで、1950年代にアメリカの海外への軍事支出、政府援助、政府借款が貿易収支の黒字分以上を占めて、1960年には既にドル危機と懸念される状況になった。アメリカ自体のドル交換に応じる金保有の割合は、1948年の3.8倍から1960年には1.6倍に減少していた。そこへ、1965年のベトナム戦争介入による財政赤字とインフレーションで、国際収支の赤字幅拡大によって、1966年に初めて外国のドル準備がアメリカ財務省が保有する金保有額を上回る事態となった。1968年頃からドル危機を潜在的要因としたフランの通貨不安が顕在化して、1969年8月にフランは11.1%切り下げ、9月にマルクは9.3%切り上げられた。 1971年当時の先進各国の経済力・競争力と比較して、アメリカのドルは現実の経済力・競争力よりも高い為替レートになり、対ドルの為替レートは現実の経済力・競争力よりも低い為替レートになり、アメリカは国際貿易において赤字を出す不利な状況であった。さらに海外に流出したドルは、貿易黒字国の対外準備として蓄積されたため、インフレーションを加速させた。こうした国際流動性の拡充で米国がドル債務を負う形でドルを供給し、ベトナム戦争もあってドルと交換できる金の準備額がもはや不足していた。 そして国際収支の赤字は、それ以前から続いていたが、1971年4月に貿易収支が初めて赤字となり、8月に入ってからフランス、8月13日にはイギリスがアメリカに対して30億ドルの金交換を要求した。この時が金・ドル交換の停止を決定する引き金になった。アメリカ政府は、金とドルがリンクした通貨体制(金・ドル本位制)を維持することがもはや困難になったと判断した。そのために起こる国内の事態急変を避けるため10%の輸入課徴金を掛け、物価・賃金を90日間凍結してその期間に各国との多角的調整をしてドルをアメリカにとって一番望ましい形に切り下げる 方向へ舵を切ったのである。 1971年8月15日にニクソン大統領の声明が発表された後、欧州各国はまだ外国為替市場が開いておらず、即閉鎖を決定し結局23日に再開するまで1週間は市場を閉じたままであったが、日本はこの声明が出たのが8月16日の午前10時で、すでに外国為替市場が開いており、ドル売りが殺到し、日銀がドル買いに走り、日本の外貨準備高が一気に100億ドルの大台を超えるなど混乱したが、その後も市場を閉鎖することがなかった。西欧各国とも対応がばらばらで、西独は2ヶ月前に変動相場制に移行していたし、仏は二重相場制、英は上限変動相場制、オランダなどベネルクス3国は域内は固定相場制で域外は変動相場制をとっており、各国間の調整はつかなかった。 日本はその後10日余りは固定相場制を維持したが、あまりの為替市場の混乱に、1971年8月27日に外貨準備高が125億ドルに達して、この日の閣議で翌28日からやむなく為替相場で1ドル360円に上下1%の変動幅の制限枠を撤廃し、変動相場制に移行することを決定した。1ドル360円の時代はこの日に終わった。ショックから12日後である。円の為替レートは前日までの360円から変動相場となった初日8月28日に342円となり、その後340円前後にとなり、年末までに320円前後を推移した。 この1971年8月15日のニクソン大統領の声明そのものが経済活動に直接影響を与えたわけではなく、その後の多国間通貨調整でドルと他国通貨の為替レートの変更、特にマルクと円の切り上げが経済面で大きな影響を与えた。そして金とドルの交換停止は第二次大戦後の国際金融の枠組みであったブレトン・ウッズ体制の終焉を告げたという意味で、このニクソン声明は重要なものであった。
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