ショックの要因と推移とは? わかりやすく解説

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ショックの要因と推移

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 01:36 UTC 版)

ニクソン・ショック」の記事における「ショックの要因と推移」の解説

第二次世界大戦終りに近づいた1944年米国ニューハンプシャー州ブレトン・ウッズ連合国44か国の各国代表集まって締結されブレトン・ウッズ協定は、当時アメリカ合衆国の経済力を中心として大戦後の世界経済運営国際通貨管理前提にしていた。いずれの世界大戦でも、アメリカ本土戦場とならず各国への経済的支援行いその軍事特需で富を蓄積して戦後圧倒的な経済力持ったアメリカ戦後国際金融体制中心に位置してドルだけが金と交換できる通貨として、他の国ドルとの交換比率固定して為替相場固定することによって国際貿易円滑にして経済活動活発化させることが目的であった。 この協定に基づく国際金融体制ブレトン・ウッズ体制といい、アメリカ圧倒的な生産力持って世界各国輸出することで稼いだ貿易黒字源泉として蓄えた大量金準備裏打ちされたものであった。そして各国ブレトン・ウッズ体制の下で安定した国際貿易利益享受していた。戦前通貨発行量が希少金属である金の保有量に制約される金本位制であったが、戦後は金・ドル体制とも金為替本位制とも呼ばれ実質的には金とドルを同じ基軸として置く体制成り立ち1950年代戦後復興科学技術発達による経済規模拡大国際貿易国際投資拡大社会保障政策普及冷戦による恒常的な軍事費増などで、財政支出恒常的拡大進んでいった。 やがて西欧各国次第経済力回復させて、また日本高度経済成長アメリカ以外各国経済発展していく中で、アメリカの手持ちドル海外へ流出するようになり、金と交換できるドル絶対的価値揺らぎ始めるのは60年代入ったであった戦後各国定めた通貨固定為替レートは、アメリカ除いて第二次世界大戦主要な交戦国戦争著しく疲弊していた当時世界経済状況前提定められレートであり、大戦直後世界の金保有額の三分の二アメリカ集中してドルの金交換に基づく固定相場制原則としたIMF体制成り立っていた。そして戦災から復興した国々経済発展するにつれて固定為替レート次第各国経済力競争力から乖離した状況になり、50年代に入ると各国通貨ドル対す為替レート英ポンドや仏フラン切り下げられ1961年3月には西独マルクそれまで1ドル=4マルクが5%切り上げられるなど、その時々に応じた通貨調整行ってきた。しかし60年代後半になると潜在的要因としてドル凋落見え始めていたのであるそれまで1950年代アメリカ海外へ軍事支出政府援助政府借款貿易収支黒字分以上を占めて1960年には既にドル危機懸念される状況になったアメリカ自体ドル交換応じる金保有割合は、1948年の3.8倍から1960年には1.6倍に減少していた。そこへ、1965年ベトナム戦争介入による財政赤字インフレーションで、国際収支赤字拡大によって、1966年初め外国ドル準備アメリカ財務省保有する保有額を上回る事態となった1968年頃からドル危機潜在的要因としたフラン通貨不安が顕在化して、1969年8月フランは11.1%切り下げ9月マルクは9.3%切り上げられた。 1971年当時先進各国経済力競争力比較してアメリカドル現実経済力競争力よりも高い為替レートになり、対ドル為替レート現実経済力競争力よりも低い為替レートになり、アメリカ国際貿易において赤字を出す不利な状況であった。さらに海外流出したドルは、貿易黒字国の対外準備として蓄積されたため、インフレーション加速させた。こうした国際流動性拡充米国ドル債務を負う形でドル供給しベトナム戦争もあってドル交換できる金の準備額がもはや不足していた。 そして国際収支赤字は、それ以前から続いていたが、1971年4月貿易収支初め赤字となり、8月入ってからフランス8月13日にはイギリスアメリカに対して30ドルの金交換要求した。この時が金・ドル交換停止決定する引き金になったアメリカ政府は、金とドルリンクし通貨体制(金・ドル本位制)を維持することがもはや困難になったと判断した。そのために起こる国内事態急変避けるため10%輸入課徴金掛け物価賃金90日間凍結してその期間に各国との多角的調整をしてドルアメリカにとって一番望ましい形に切り下げる 方向へ舵を切ったのである1971年8月15日ニクソン大統領声明発表された後、欧州各国はまだ外国為替市場開いておらず、即閉鎖決定し結局23日再開するまで1週間市場閉じたままであったが、日本この声明が出たのが8月16日午前10時で、すでに外国為替市場開いており、ドル売り殺到し日銀ドル買い走り日本外貨準備高一気100ドル大台超えるなど混乱したが、その後市場閉鎖することがなかった。西欧各国とも対応がばらばらで、西独は2ヶ月前に変動相場制移行していたし、仏は二重相場制、英は上限変動相場制オランダなどベネルクス3国域内固定相場制域外変動相場制をとっており、各国間の調整はつかなかった。 日本その後10日余り固定相場制維持したが、あまりの為替市場混乱に、1971年8月27日外貨準備高125ドル達して、この日の閣議で翌28日からやむなく為替相場1ドル360円に上下1%変動幅制限撤廃し変動相場制移行することを決定した1ドル360円の時代はこの日に終わったショックから12日後である。円の為替レート前日までの360円か変動相場となった初日8月28日342円となり、その後340前後にとなり、年末までに320前後推移した。 この1971年8月15日ニクソン大統領声明そのもの経済活動直接影響与えたわけではなくその後多国間通貨調整ドル他国通貨為替レート変更、特にマルクと円の切り上げ経済面大きな影響与えた。そして金とドル交換停止第二次大戦後の国際金融枠組みであったブレトン・ウッズ体制終焉告げたという意味で、このニクソン声明重要なものであった

※この「ショックの要因と推移」の解説は、「ニクソン・ショック」の解説の一部です。
「ショックの要因と推移」を含む「ニクソン・ショック」の記事については、「ニクソン・ショック」の概要を参照ください。

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