インフレーションの鎮静化
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「ヴァイマル共和政のハイパーインフレーション」の記事における「インフレーションの鎮静化」の解説
「レンテンマルク」も参照 ハイパーインフレーションの危機により、有名な経済学者や政治家たちがドイツの通貨を安定させる手段を検討し始めた。国内に存在する金や外国為替を用いて金本位制に復帰すべきというもの、それでは不十分なので国内にある物的価値を基礎として新たに貨幣制度を創設すべきとするものなどがいた。 1923年8月には、経済学者のカール・ヘルフェリッヒ(英語版)がライ麦マルク(ロッゲンマルク、Roggenmark)と称する、ライムギの市場価格を基準とした資産担保証券に裏付けられた新しい通貨を発行する計画をヴィルヘルム・クーノ内閣に対して提案した。農業およびそれ以外の産業に対して半分ずつ抵当の形式で課税することで資本金を調達し、この抵当に対して発行される証券を保証準備としてライ麦マルクを発券する。これは資本家や地主階級の利益を反映した案であった。 グスタフ・シュトレーゼマン内閣が成立すると、その財務大臣ルドルフ・ヒルファディングはヘルフェリッヒの提案に反対した。しかし食糧・農業大臣であったハンス・ルターがヘルフェリッヒの案を支持してシュトレーゼマンの関心を引き、まもなくルターが財務大臣となって、ヘルフェリッヒの提案を基に土地マルク(ボーデンマルク、Bodenmark)の発行を提案した。土地債務や債券の基準として金マルクを採用した点がライ麦マルクとは異なっていた。さらに修正を加えて、土地マルクでは唯一の法定貨幣にすることになっていて、流通中の帝国銀行券の使用を停止することになっていたが、引き続き帝国銀行券が通貨としての効力を有するように改めて、新マルク(ノイマルク、Neumark)の発行案となった。土地マルクでは、帝国銀行は廃止されることになっていたが、長い間にわたって築かれた帝国銀行の信用と機構を失うのは不経済であるという点で、帝国銀行の存続と帝国銀行券の法貨としての維持を認めることになった。 1923年10月13日、「財政的経済的および社会的諸領域において、政府が必要かつ緊急と思う諸方策を行う全権を与え、その際憲法の基本的権利から逸脱しうる」とする授権法が議会で成立した。それに基づいて10月15日にドイツ・レンテン銀行設立令 (Verordnung über Errichtung der Deutschen Rentenbank von 15 Oktober 1923) が制定され、10月20日にドイツ・レンテン銀行が発足、11月15日に営業を開始してレンテンマルクの発行が開始された。11月12日にヒャルマル・シャハトがライヒ通貨委員に就任してドイツ・レンテン銀行運営の責任者となった。 レンテン (Renten) という言葉は、地代、資本利子、年金といった意味がある。ドイツの農民は地主に対して、借りている土地のレンテンを支払わなければならなかったが、レンテンを支払い続けることによって土地代の元本を償還して土地がいずれ自分のものになるということはなく、永久に支払い続けなければならないものであった。19世紀後半に農民をレンテンの負担から解放する運動が発生し、農民が銀行から資金を借りて土地を購入し、銀行に対し利払いと元本償還を行うようになった。このための銀行もレンテン銀行と称し、土地に対して発行される証券をレンテン証券、銀行に対する支払いをレンテンと呼んだ。したがって、ドイツ・レンテン銀行設立前からドイツには各地にレンテン銀行がいくつも存在しており、レンテンマルク発行の主体となった銀行はドイツ・レンテン銀行と呼んで区別する。 ドイツ・レンテン銀行は私企業であり、通貨発行権を持つ銀行ではなかった。したがってレンテンマルクもノートゲルトの一種である。法貨ではないが、政府は支払手段としてレンテンマルクを受け入れるとされていた。銀行の資本金は32億レンテンマルクとされ、半分を農業から、残りを商工業と銀行業から調達した。農業からの出資分については、1913年7月3日の国防分担金と補填法 (Wehrbeitrag und Deckungsgesetze vom 3 Juli 1913) に基づいて国防分担金が徴収された際の金額算定基準となった農地価格の4パーセントを債権として銀行が取得することによって実施された。したがって農家は農地価格の4パーセントの債務をドイツ・レンテン銀行に対して負ったことになっただけで、現金での出資ではなかった。農業以外の部門からの出資についても、土地に関しては同じ方式であり、土地債務で充当できない部分については別途債務証書を差し入れた。こうしてドイツ・レンテン銀行は出資者から金マルク(戦前のマルクの価値に相当する、純金の1/2790キログラムの価値)建ての債務証書の形で出資を受ける。この債務に対し出資者は年6パーセントの利子を銀行に払わなければならない。ドイツ・レンテン銀行はこの債務証書を保証準備として5パーセントの利子付きのレンテン債券を発行し、さらにこのレンテン債券を支払準備としてレンテン銀行券(レンテンマルク)を発行する。レンテンマルクの発行高は資本金と準備金の合計額を超えてはならない。レンテンマルクは請求があれば、レンテン債券と兌換する。これにより、レンテン銀行券はレンテンマルク建てで表示されているが、レンテンマルクは戦前の金マルクと等しい価値を持つことになる。 ヒャルマル・シャハトがライヒ通貨委員に就任した1923年11月12日以降、ドイツの中央銀行であるドイツ帝国銀行はこれ以上政府の国債を購入することを認められなくなり、これにより対応するパピエルマルクの発行も停止した。商業手形の割引をすることは認められ、レンテンマルクの総額は増大することになるが、現在の商取引および政府の取引に一致するように厳格に発行が管理された。ドイツ・レンテン銀行は、レンテンマルクが法定貨幣ではないことから、政府とレンテンマルクを借りることができない投機家に対する信用供与を拒否した。 レンテンマルクとパピエルマルクの交換比率は、法律では定められなかった。ドルとパピエルマルクの間は為替変動があり、ドルとレンテンマルクはほぼ固定であったため、レンテンマルクとパピエルマルクの間でも交換比率が変動することになった。レンテンマルクは絶大な信用を得て、発行開始から数日の間、帝国銀行の窓口にはパピエルマルクをレンテンマルクに交換しようとする人の長い行列が形成された。レンテンマルク発行開始の11月15日時点で、ベルリン市場におけるドルとパピエルマルクの為替レートは1ドル1兆5200億マルクであったが、11月20日に1ドル4兆2000億マルクまで下落した時点で安定した。これにより、戦前の金マルクでは1ドル4.2マルクであったが、パピエルマルクの価値はそれに比べて1兆分の1に下落したことになり、1兆パピエルマルクが1金マルクに等しく、また1レンテンマルクが1金マルクに等しいことから、1兆パピエルマルクが1レンテンマルクの公式が成立した。 帝国銀行総裁のルドルフ・ハーフェンシュタイン(英語版)は、奇しくも為替相場が安定した1923年11月20日に死去し、シャハトは11月22日に後任の帝国銀行総裁に就任してドイツ・レンテン銀行責任者と兼務となった。世界各地の市場では、11月20日以降もマルクの価値が下落したが、ドイツ帝国銀行は1ドル4兆2000億パピエルマルクの為替相場を維持するように為替介入した。12月14日には、帝国銀行はパピエルマルクとレンテンマルクを1兆マルク=1レンテンマルクで交換すると初めて公式表明した。レンテンマルク発行当初は、人々はパピエルマルクを忌避してレンテンマルクを歓迎していたが、発行開始から2週間もするとこの1兆マルク=1レンテンマルクの計算しやすい固定交換比率が定着して、パピエルマルクとレンテンマルクを同様に並列で使うようになった。こうして1923年12月下旬にレンテンマルクだけでなくパピエルマルクについても価値が安定することになった。 1923年の9月から10月にかけては、猛烈なインフレーションにより社会経済情勢が悪化し、商工業が不振を極め失業が増大し食糧配給も危機に陥る状況であり、一方政府の財政赤字は依然として巨額であったため、レンテンマルク発行につながる最初の提案を出したヘルフェリッヒでさえ、レンテンマルク発行の実効性を危ぶんでいた。ところが、レンテンマルクが発行されて数日でインフレーションは沈静化し為替相場が安定し、政府の財政均衡も回復して国民生活が改善に向かったことで、当時の人々にとっては奇跡としか思われず、「レンテンマルクの奇跡」という言葉が使われるようになった。 レンテンマルクの発行開始に合わせて、帝国銀行は11月17日に回状訓令を全国の支店に送って、11月22日以降は支店窓口でノートゲルトを受け取らないように指示し、またノートゲルトの発行団体はノートゲルトを回収するように要求した。ノートゲルトの回収は急速に進み、総額10億金マルクにも上ったと概算されたノートゲルトが1924年1月末には5億金マルク、6月中旬には1億金マルクと減少していき、1924年10月末にはほぼすべてが回収された。 こうしてインフレーションは沈静化し為替相場も安定したが、賠償金の支払いのようなドイツ国内ではどうすることもできない支出や、ドイツ国内の物価騰貴のための貿易赤字のような問題が起きると、再び為替相場は安定を失いかねない問題が残っていた。またドイツ国内のレンテン債券と兌換のレンテンマルクは、国際的な決済手段としては使いづらい問題があった。1924年4月9日に賠償委員会に提出されたいわゆるドーズ案の最終報告書では、ドイツの通貨の安定が賠償の履行自体にも不可欠であるとして、ドイツ帝国銀行を通じた新貨幣の創設を提案した。これを受けて1924年8月30日にドイツ政府は貨幣法 (Münzgesetz vom 30. August 1924) を制定し10月1日から施行した。この法律に基づき、ドイツ帝国銀行は新たにライヒスマルクという通貨を発行し、戦前の金マルクと同じ金1キログラムが2790マルクの比率で金兌換する、金本位制に復帰することになった。1兆パピエルマルクを1ライヒスマルクに交換するとともに、過渡的役割を果たしたレンテンマルクについても以後順次回収してドイツ・レンテン銀行は清算されることになった。
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