アフリカでの普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 15:09 UTC 版)
「アフリカン・ワックス・プリント」の記事における「アフリカでの普及」の解説
サブサハラ・アフリカと呼ばれるサハラ砂漠から南の地域は、乾季や早朝をのぞけば衣服を必要とするほど気温が低くならない。縫製した衣服の普及は、北アフリカのイスラーム商人との交易がきっかけとなった。8世紀のガーナ帝国の時代にはサハラ交易の交易路に沿ってイスラームが伝わり、体を覆わずにいることを避けるイスラームの習慣が衣服の伝播に影響した。10世紀から14世紀にかけて西アフリカ各地でイスラームへの改宗が進み、衣服をまとうようになったという記録がある。ただし衣服は権力と結びついており、王や要人、イマームらが優先的に身につけた。それ以外の者には、19世紀以降に縫製した衣服を着る習慣が普及した。サブサハラ・アフリカでのコットン生産の最初期の記録は11世紀にあり、バンディアガラの断崖でテレム族(英語版)が精紡・製織・藍染を行っていた。こうした技術もイスラームの伝来によって普及したと推測されている。 15世紀〜19世紀前半 15世紀以降のポルトガルをはじめとして、16世紀から18世紀にはオランダ、フランス、イギリスなどヨーロッパ諸国がアフリカへ更紗を持ち込んだ。更紗は、奴隷貿易で奴隷と交換する商品になり、アフリカの奴隷商人は銃やアルコールよりも更紗を求めた。オランダの医師・作家のアルフェルト・ダッペルは、『アフリカについての記述』(1686年)で西アフリカ向けの繊維製品のリストを記録している。1775年と1788年の史料によれば、フランスが奴隷と交換した商品の半分以上がインド更紗だった。 19世紀後半〜20世紀前半 ベルリン会議(1884年から1885年)の後、ヨーロッパ諸国によってアフリカの植民地化が進み、キリスト教の習慣も影響を及ぼした。イギリス領西アフリカのケニア植民地(英語版)では、在来の文化を否定するために洋服の普及が進められた。フランス領西アフリカでは、平民とエリートを区別するために洋服が導入された。仕事以外の時間では好きな服装をしていたと記録にある。海岸部ではヨーロッパの洋服の影響が大きく、内陸部の古くからイスラームが普及している地域では、ブーブーと呼ばれる貫頭衣が多くなった。 19世紀末から20世紀初頭には、ヨーロッパからアフリカに輸出される布のサイズや絵柄がアフリカ向けになっていった。布のサイズは、初期はジャワ更紗を使うサロンにしたがって幅36インチ(91センチメートル)だった。やがて西アフリカの腰布のサイズである幅48インチ(122センチメートル)が標準となった。絵柄では、象や料理器具などが登場した。西アフリカの社会では、アフリカン・プリントが晴れ着などのラグジュアリーとして確立され、嗜好に合わせて布を買う傾向が強まった。このため、オランダ企業が提案する新デザインは売れなくなり、アフリカの消費者がより主導するようになった。1930年代以降には参入企業が増え、20以上のヨーロッパ企業がファンシーを生産した。日本企業も1930年代からアフリカン・プリントに参入し、西アフリカのプリント布に加えて、東アフリカでカンガと呼ばれるプリント布も生産した。1930年代以降は横浜でアフリカ向けのスカーフの輸出も始まっており、スカーフの絵柄にはワックス・プリントをもとにしたものが多く使われた。絵柄のデザインには、イギリスのUAC(ユニリーバ)の影響があったとされる。 第二次世界大戦以降 第二次世界大戦後も欧米や日本からのアフリカン・プリントの輸出は続いた。日本では、1949年には西アフリカ向けと思われる布が確認されている。1950年代には日本の綿織物輸出の10パーセントはアフリカ向けとなった。日本製品には欧米企業のワックスのデザインを模倣したものがあり、1949年にイギリスは当時の日本を占領統治していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に抗議をした。GHQのもとで1950年に意匠委員会が設立されてデザイン盗用の防止にあたり、1955年の日本繊維意匠センター設立や、1957年の通商産業省のグッドデザイン商品認定制度へとつながっていった。1959年には、ヨーロッパ企業のワックスの生産量は5280万ヤード(約4万8280キロメートル)に達した。 1960年代にはアフリカで植民地からの独立が相次ぎ、アフリカ諸国でもアフリカン・プリントが生産され、低コストで大量生産のできるファンシーは急速に普及した。イギリス、オランダ、日本のシェア争いは1970年代まで続き、日本企業は手間がかかり高価なワックスからファンシーへの切り替えが増えていった。アフリカでナショナリズムが活発になるにつれ、洋服が普及していたシエラレオネやナイジェリアでは服装改革が起き、男性はアフリカ風のデザインを取り入れたスーツ、女性は縫製と巻き布の組み合わせなどを着た。ザイールではモブツ・セセ・セコ大統領がネクタイを禁止し、女性にワックスを奨励した。 1980年代にはアフリカ諸国の経済危機の影響でヨーロッパ企業の撤退が増え、代わって1990年代からは中国からの輸出が増えた。中国企業はアフリカン・プリントをはじめとしてさまざまな廉価な布製品や新品の既製服を輸出し、インクジェットプリンターの進歩によってデザインの模倣も容易になった。オランダや日本の企業は高級なワックス生産に注力し、オランダ企業はラグジュアリーとしてのブランド作りやデザインコレクションの開発、展覧会の開催などを行ったが、アフリカの消費者には浸透しなかった。1980年代以降のアフリカのクリエイターはワックスプリントのイメージを更新し、40代以上の既婚女性の生地というイメージから、より若い層が着るものにした。マリのクリス・セイドゥ(英語版)や、ブルキナファソのパテ・ウェドラオゴ(フランス語版)、ジル・トゥレなどのファッション・デザイナーが支持され、ワックス・プリントを再生させた者としてポイント・オブ・インフルエンス(POI)とも呼ばれた。
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