隆の里俊英 現役時代

隆の里俊英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/17 23:37 UTC 版)

現役時代

入門

浪岡町の農家の次男に生まれる。春は雪囲いの片づけをして、苗代作り、リンゴの授粉、秋は「身体が大きいから人より持たないとバカにされる。」と思いながら稲刈りを手伝い、ヤギの乳をビール瓶に詰めて学校に持っていって育った[3]

弘前市出身の二子山親方(第45代横綱初代若乃花)が、大鰐で下山勝則(後の若三杉、2代若乃花)をスカウトしてタクシーに乗ると、運転手が「親方、浪岡にも大きいのがいます」と言うので紹介を頼んだ。これが高谷俊英、のちの隆の里だった。

農協に貼ってあった山積みの米とリンゴを背景に立つ初代若乃花のポスターを「成功の象徴」として見て育った高谷少年は、東京には興味があったが、当初は高校入学直後で足を怪我していたため固辞した。しかし、二子山が「夜行の切符を取ってあるんだ。これが無駄になる。A寝台なんだ。」とつぶやくと、迷惑をかけてはいけない、高校を卒業してからでもいいというので、いったん東京見物をしようと思い連れだされると、その間に身辺に根回しをされてしまい観念した。のちに横綱に昇進する下山少年と高谷少年が、二子山親方に連れられ、夜行列車ゆうづる」に乗って一緒に上京したことになる。二子山親方は二人が途中駅で下車し引き返さないように終点上野駅の一つ前の駅まで一晩中寝ずに見張り、その駅を出発してようやく安心して眠ったという。

上野駅のホームに「月面にしるす第一歩のような気分で」降り立ち、杉並区の二子山部屋に到着すると、生まれて初めて牛肉すき焼きを食べた。そろそろ帰りたいと思ったタイミングで、担任と同級生から手紙や寄せ書きが届き、すでに入門したと伝える地元紙の切り抜きが入っていた[4]。偶然のことから二子山親方に勧誘された高谷は、浪岡高校柔道に励んでいた)を中退して二子山部屋に入門することを決め、1968年(昭和43年)7月場所で初土俵を踏む[5]

糖尿病との闘い

未成年の取的時代から酒好きであり、しばしば稽古を抜け出してを一気飲みする、稽古の後にビールを3本飲み、ちゃんこと一緒にウイスキーを飲むという半ば酒に溺れた食生活を行っていた[6]。隆の里がこのように大酒を飲むようになった背景には入門2年目の場所中にリンゴ園を営んでいた父を、3年目に5歳年下の妹を病気で失ったという事情がある[7]。父の死を知ったのは、勝ち越しを決め父に朗報を伝えようと病院に電話をしたときであった。病院からの連絡を胸の内に留めていた二子山は翌日「この社会は本場所中は帰れない。力士は土俵が本業だ。それを全うするためには親の死に目に会えないこともある。お前は偉くなって恩返しするしかない。」と、自分が看板である部屋単位の巡業中で父親の死に目に会えず、悲しみをぐっと堪えてそのまま巡業を続けた自分の経験をしみじみと伝えた[8][9]

暴飲暴食が祟り、幕下だった1972年(昭和47年)に、糖尿病を患った[1][10]。入院直後の空腹時血糖値は408[7]。最初は病状を内緒にしていたが、若三杉(下山)が新十両、隆の里が幕下東5枚目だった1973年(昭和48年)7月場所、3勝3敗で最後の一番に勝てば十両入りはほぼ確定的の相撲で、体が脱力感に襲われてまるで動かず敗北した[11]

隆の里は師匠に病状を全て打ち明け場所後に入院した[12]。大量の飲酒もさることながら、遺伝的要素も糖尿病の原因として大きかった[7]。食事に厳しい制限が課せられ「いっぱい食っていっぱい稽古して」という力士が強くなるための条件を半分失った。入院して気が滅入ったが、主治医に「君は将来三役になる力士だから、しっかり治しなさい。」と言われる。師匠の二子山が「先生、高谷は病気さえ治れば大関も夢でないんです。三役になる力士なんです。見捨てないで、何としても治して下さい。」とお願いしていたことを知り奮起した[13]

幸いにも「稽古するな」とは言われておらず、むしろ稽古を増やすことで病状が快方に向かうので人一倍稽古をした。入院中は病院の屋上で四股を踏み、病院中が揺れて驚かれた。入院中は週二回しか風呂に入れないので、屋上での稽古後は洗面所で身体の汗を拭いた。最初は怒られたが、夜中床に新聞紙を敷いて腕立て伏せに励む姿を見た病院関係者も黙認して応援するようになった[13]。当初は瓶に紅茶を入れてウイスキーと偽って飲んでいたが、糖尿病を隠す力士も多いなか、病気を周囲にきちんと公表し、後援者などとの酒の席でも「病気のためにあまり飲めません」と説明した[6][5]ちゃんこ鍋野菜豆腐を中心にして、もちろん酒は断った。は脂身を避け、は白身を選び、は黄身を残して白身だけを食べた。7、8杯食べていた丼飯は1杯で我慢。満腹感を得るために、ワカメを丼で食べ、無塩のトマトジュースを飲んだ[7]。部屋の力士たちで食事に行く際も、ハンバーグエビフライステーキなど豪勢なオーダーが飛び交うなかで、自身はメニューをじっと見た挙句、わかめスープを頼み、「サラダにはマヨネーズをかけないでください」「野菜炒めは油をあまり使わないでください」と細かい注文も付け足すので、兄弟子たちからは「いちいちうるさいやつだ」と怒られた[14]

本人はインタビューで「相撲でつとまらなくて中途半端な状態で田舎に帰ったら、周囲から何を言われるか分からない。だから頑張った」と当時を説明している。また二子山親方夫妻も当時の幕下力士としては異例の糖尿病治療用メニューを認めるなど治療に全面的に協力していたことも大きかった[注 2]。持病を公表し、さらに親方が治療に協力していることが周知されたために、後援者にも協力的な者が多かったとも伝わる。

糖尿病に効くと言われれば民間療法も試すなど治療のためならまさに何でもしたが、失敗も少なくはなかった。安直な薬物療法を嫌う治療態度で知られており、当時より食事療法で糖尿病を治療する方針であった[1][15]。ちゃんこ鍋に豆腐と野菜しか残っておらず、これでは良質なたんぱく質を摂取できないとスーパーマーケットサバ缶や乳児用の粉ミルクなどを購入して口にした。前者は40円(1975年の大卒初任給は約9万円)で購入することができたうえにプロテインスコアが高いことや青魚の油分、EPADHAなどが豊富に含まれていること、後者は「乳児の体を健やかに成長させるものだから力士にもよいに決まっている」という考えから選んだが、当時はそのような理屈が相撲界には浸透しておらず、変わり者扱いされることもままあった[16][17]。部屋から近い阿佐ヶ谷ピーコックでサバ缶を30個購入したときには、「隆の里関が飼っているはどんな種類なのですか。」と店員に質問されたという[18]

あるとき野菜ジュースを作っていた際、同部屋の兄弟子である貴ノ花に「みんなで酒飲んでるときに君だけ野菜ジュースか」と言われたことがあり、「漢方薬博士」というあだ名も贈られていた。もちろんこれは弟弟子に対する愛情表現である。ある力士仲間からは「付き合いが悪い」とも言われたが、それには耳を貸さなかった[7]。隆の里が好きなだけ食べる日は数週間に一度だけであったという[7]

糖尿病をわずってからは成績がふるわず、同期生の若三杉(下山)に水を開けられたが、若三杉は大関昇進記者会見でも「同部屋のライバルは誰ですか?」と聞かれれば、たとえ失笑されても常に「ライバルは隆ノ里です(「の」の字は当時は片仮名)」と答えていたことも励みになった[6][19]。若三杉が横綱・若乃花になって以降も、インタビューなどでは「隆の里は俺より強いですよ」とたびたび答えている。当時の隆の里は「稽古場大関(横綱)」と呼ばれ、関係者の間では実力者であることが認識されていた[5]

1970年には名城大学ウエイトリフティング部監督と出会い、7月場所のたびに指導を受けていたが、糖尿病にかかって以降は本格的にウエイトトレーニングの指導を仰いだ[7]

十両東3枚目だった1975年(昭和50年)1月場所には珍しいヌケヌケを記録している。初日に勝ってのヌケヌケであったため8勝7敗の勝ち越しだった(後述)。

1975年5月場所新入幕。当時から怪力による吊り寄りの強さがあったが、突き押し相撲には弱く、相手を捕まえられないまま土俵を割ってしまう場面も多かった。糖尿病の影響で血糖値が不安定なのも影響していたようだ。また身体が柔軟性に欠け、柔道時代の癖もあって、どちらかというと取り口は不器用な方だった。この点、身体の柔らかさからくる懐の深さを武器にしていた若三杉とは対照的である。実力は十分ながら精神面で弱いと評されたこともあり、大舞台でなかなか実力を発揮できない部分もあったといわれている。

おしん横綱

入幕してすぐには幕内に定着できず、十両との往復を繰り返した。その間に、同部屋の若三杉や怪童と呼ばれた北の湖など、いわゆる花のニッパチ組(昭和28年・1953年生まれ)[注 3]に先を越されてしまう(隆の里は昭和27年生まれ)[5]

1979年(昭和54年)5月場所に4度目の入幕。翌7月場所で四股名を「隆ノ里」から「隆の里」に改名し、以後は幕内に定着する。1980年(昭和55年)ごろから糖尿病が快方に向かい成績が向上[5]。師匠・二子山親方がよき理解者となり治療に協力したのが大きかったという。隆の里は、1970年代の相撲界では異端視されていた筋力トレーニングなどの科学的トレーニングを、早くから積極的に行っていた[1]。一部で「頑迷」と語られる二子山も、隆の里が科学的トレーニングばかり行うのではなく相撲本来の稽古も熱心だったことから、独自のトレーニング方法を認めていたといわれる。1980年(昭和55年)9月場所2日目の麒麟児戦では右手首の亀裂骨折の重傷を負ったが、二子山から「医者の言うことばかり聞いていても強くならないぞ」と休場を認めず「稽古で固めろ」と言われてその後実際にこの重傷を稽古で治した[20]

千代の富士琴風朝汐、同部屋の太寿山などと並んで大関候補と呼ばれるようになった。とはいえ精神面の弱さからか成績が安定せず、優勝争いにも顔を出すほどの大勝ちもあるが大事な場所で2桁勝利に届かず大関昇進に幾度か失敗し、千代の富士や琴風に先を越される結果になった。

1981年(昭和56年)3月場所では、稽古で擦りむいた膝の傷からばい菌が入って蜂窩織炎にかかる。厳しさで有名な師匠・二子山でさえ休場をすすめたが、隆の里は入院して十字切開手術をして、四十度の高熱を押さえて病院から支度部屋に顔を出さずに場所へ通う。体育館横の事務所で穴があいた傷の手当てをし、控えに入る直前に痛み止めの注射をして土俵にあがったが、何とか二桁の白星をあげ、大関への足固めをした[21]。これ以来、 相撲の後は爪に入った砂を消毒液を付けた脱脂綿で取り除いたり傷の手当をしており、常に救急箱を持参していた[22]。苦労のかいあって三役で三場所合計33勝を挙げ、1982年(昭和57年)1月場所後に当時最スローの82場所、29歳3か月の年齢で大関に昇進した[1][5]。大関昇進伝達式では口上に「健康管理に努め…」と糖尿病を抱える身であり治療のためにさまざまな工夫を重ねていることを公言する隆の里ならではの口上を述べた[23]

糖尿病を克服して大関に昇進した隆の里に関し、東京大学病院長の上田英雄教授(5代目横綱審議委員会委員長)は、「どうやって糖尿病を克服したのか。会って話をしたい。」と驚き、駿河台日大病院循環器科の梶原長雄教授は、「これは医学では説明できない。精神力で病気を治した。本人の努力以外ない。」と称賛し、隆の里の著書『糖尿病に勝った』の序文を執筆した[24]

同年9月場所には15戦全勝で初優勝を果たした。このとき、 NHKの実況は「同僚が、後輩が、脚光を浴びる華やかな土俵の陰で、黙々と励み続けた十四年。相手に勝つこと以上に苦しかった病との闘いを乗り越えて、今、津軽の里に錦を飾る初優勝です。」と伝えた[25]。優勝パレードの旗手は同郷・同時入門の盟友・2代若乃花が務めた。

最初の綱とりは10勝5敗で失敗するが、翌場所から成績が上昇する。1983年(昭和58年)5月場所は13勝で準優勝、7月場所は同部屋の若島津とともに綱とり場所となったが[26]、中盤以降崩れた若島津に対し隆の里は千秋楽に相星で当たった千代の富士を倒し14勝1敗で2度目の優勝を果たし、7月場所後の横綱審議委員会では約20分の審議の結果、出席した7人の委員全員の一致により横綱推薦が決まった[27]。立ち合いの腰高ぶりを「品がない」と指摘する意見や健康に注意することといった要望が委員から出たものの、直前3場所通算39勝は2代若乃花に次ぐ成績であり、また直前場所を優勝したことにより目立った異論はなかった。答申を受けた理事長の春日野は「年齢は関係ないと思う」「防御に入ると首投げを安易に打つなど甘い。攻めの相撲にも、もっとみがきをかければ横綱に耐え得る」[27]と期待を寄せた。横綱昇進伝達式では「謹んでお受けします。横綱の名を汚さぬよう努力精進します」[28]と述べた。横綱土俵入りの型は、当時から後継者が少ない「不知火型」を選んだ。これは二子山が「高谷(隆の里)は初代羽黒山関に体つきが似ている」[29]と示唆したことにより、型の保存に加え、腰高を矯正させるために指示したという[30]。横綱土俵入りの指導は一門で同じ不知火型の佐渡ヶ嶽(元琴櫻)が行った[31]

すでに引退していた同郷・同時入門の2代若乃花は、病に苦しんだ隆の里の横綱昇進が決定すると、「自分は早く咲いて早く散ったけど、高谷には遅く咲いた分だけ一場所でも長く咲いてほしい。あいつは根性があるので、いつかは横綱になると思っていた。これで自分の夢もかなった。」と語り、「自分が横綱になったときより嬉しい。」と号泣した[32]

糖尿病に耐えながらの隆の里(30歳)横綱昇進を好評放送中の1983年度放送『おしん』(NHK連続テレビ小説)になぞらえ新聞は「おしん横綱誕生」と報道[6][5][10]。1983年放送大河ドラマ徳川家康』も含め、辛抱三人組「おしん・家康・隆の里」という流行語が生まれた[33][34][35]

千代の富士の天敵

隆の里は身体が硬く立合いも腰高なため、突き押し相撲や差したらいっぺんに出てくる速攻相撲(琴風など:後述)は苦手にしていた[注 4]。しかし持ち前の怪力を生かし、右四つがっぷりに組み止めてしまえば、どんな強敵もほぼ確実に仕留めるだけの力を持っていた。右四つ両廻しを引き付けて吊り寄りで攻めるというのが得意な取り口だった。

千代の富士(隆の里とは同時に十両に昇進している)は隆の里を大の苦手にしていた[1]。千代の富士いわく「右の相四つだけどがっぷりになると力負けする、何をやっても全部読まれて裏目に出る」というほどのものだったといい、場所中に支度部屋や廊下で隆の里とすれ違う際、顔も見たくない気分だったという。

隆の里は「千代の富士に1回勝てば白星3個分の価値がある」として攻略のため、千代の富士の相撲をビデオテープに録画、何度も繰り返し再生し、日常生活や趣味、巡業中の行動や考え方、クセに至るまで観察し、千代の富士の弱点を徹底研究していた[36]。その結果ビデオテープが擦り切れたり、ビデオデッキが二場所で壊れ、修理に出すと擦り減ったヘッドを見た店員に「どうやったらこんな壊れ方するの?」と言われたり、隆の里がビデオばかり見ているので遊びにきた友人が呆れ果てて帰ってしまう、というほどだった。ビデオデッキは最終的に2台が壊れたという。隆の里は現役当時より、「他の力士は頭を使わなさすぎる。工夫がないんだ」と他の力士が自分の型を磨くことばかりに執着して相手を研究することが足りないことを嘆いており、こうした自身の考えも研究熱心さを支えていた[37]。千代の富士に対するライバル意識は相当のもので、千代の富士の御当地巡業である北海道巡業ですら、郷土力士に花を持たせるショーとしての要素がある巡業の取組とあっても真剣勝負で取った[38]

千代の富士には対戦成績で16勝12敗(十両でも3度の対戦がありこれを含むなら18勝13敗)。さらに、千代の富士の横綱昇進後に限れば11勝6敗と圧倒した。千代の富士が平幕のころから横綱だった北の湖を除けば、隆の里がただ1人歴然とした差で勝ち越しており、1981年7月場所から1982年9月場所まで8連勝した。

このころの両者の相撲は立合いは千代の富士が前ミツを取り攻勢に出るのだが、隆の里が持ち前の怪力とのちにウルフスペシャルといわれた投げに対しては外掛けで我慢し、長い相撲に持ち込んで徐々に千代の富士の体を起こしてがっぷり右四つに持ち込んで寄る、吊る、投げるといういわば必勝パターンを確立していた。さらに、1983年7月場所から1984年(昭和59年)1月場所まで、4場所続けて千代の富士と優勝をかけて千秋楽相星決戦を行ない、3勝1敗という成績を残し、この間に隆の里は横綱昇進を果たしている。隆の里は優勝決定戦を1度も経験していないが、もし千代の富士対隆の里という決定戦があれば、千代の富士の決定戦無敗の記録はなかったのではという声が多い。

対千代の富士戦では多くの熱戦があったが、1981年9月場所では、新横綱の千代の富士と2日目に対戦が組まれた。たまたま隆の里は体調不良で、病院から直接国技館に場所入りして対戦。互いにがっぷり四つになり、しばらく土俵中央で胸が合っていたところ、突然隆の里が強烈な上手投げで一瞬で千代の富士を横転させるという展開になった。千代の富士は場所前から痛めていた足首を負傷し、翌日から休場を余儀なくされる。病院から場所入りした隆の里が、千代の富士を病院送りにするという皮肉な結果となった。千代の富士は翌場所やっと復活したものの、隆の里は対千代の富士戦でさらに6連勝を重ね、横綱を全く寄せ付けぬ強さを発揮した。横綱昇進前には「史上最強の大関」という呼び方をされることもあった。

なお1982年前後、隆の里、千代の富士、琴風の横綱・大関陣は三すくみの関係にあった。隆の里は千代の富士に強く、千代の富士は琴風に強く、琴風は隆の里に強かった。千代の富士戦に8連勝したのと同時期の1981年9月場所から1982年7月場所にかけて琴風戦では6連敗を喫するなど、隆の里は長く琴風を苦手にしていた。しかし、横綱昇進の時期には琴風を圧倒するようになっていた(1983年1月場所までの琴風戦は4勝17敗、1983年3月場所以後の同対戦は9勝1敗)。しかしスロー出世による年齢の壁には勝てず、早くに隆の里が衰えたことにより、その後ライバル不在もあって千代の富士の長きにわたる一強独走時代ができあがっていく。

千代の富士 - 隆の里 全対戦一覧

場所 対戦日 隆の里勝敗
(通算成績)
千代の富士勝敗
(通算成績)
優勝力士 備考
1978年1月場所 13日目 ○(1) ●(0) 北の湖 初対戦
1978年3月場所 3日目 ●(1) ○(1) 北の湖
1978年5月場所 - - - 北の湖 取り組みが組まれず対戦なし
1978年7月場所 4日目 ●(1) ○(2) 北の湖
1978年9月場所 中日 ○(2) ●(2) 北の湖
1978年11月場所 - - - 若乃花 取り組みが組まれず対戦なし
1979年1月場所 - - - 北の湖 取り組みが組まれず対戦なし
1979年3月場所 - - - 北の湖 取り組みが組まれず対戦なし
1979年5月場所 - - - 若乃花 取り組みが組まれず対戦なし
1979年7月場所 - - - 輪島 取り組みが組まれず対戦なし
1979年9月場所 - - - 北の湖 取り組みが組まれず対戦なし
1979年11月場所 - - - 三重ノ海 取り組みが組まれず対戦なし
1980年1月場所 - - - 三重ノ海 取り組みが組まれず対戦なし
1980年3月場所 - - - 北の湖 取り組みが組まれず対戦なし
1980年5月場所 - - - 北の湖 取り組みが組まれず対戦なし
1980年7月場所 11日目 ○(3) ●(2) 北の湖
1980年9月場所 6日目 ●(3) ○(3) 若乃花
1980年11月場所 14日目 ○(4) ●(3) 輪島
1981年1月場所 10日目 ●(4) ○(4) 千代の富士(1)
1981年3月場所 13日目 ●(4) ○(5) 北の湖 千代の富士、大関昇進
1981年5月場所 13日目 ●(4) ○(6) 北の湖
1981年7月場所 初日 ○(5) ●(6) 千代の富士(2)
1981年9月場所 2日目 ○(6) ●(6) 琴風 千代の富士、横綱昇進
1981年11月場所 14日目 ○(7) ●(6) 千代の富士(3)
1982年1月場所 12日目 ○(8) ●(6) 北の湖
1982年3月場所 14日目 ○(9) ●(6) 千代の富士(4) 隆の里、大関昇進
1982年5月場所 13日目 ○(10) ●(6) 千代の富士(5)
1982年7月場所 14日目 ○(11) ●(6) 千代の富士(6)
1982年9月場所 12日目 ○(12) ●(6) 隆の里(1)
1982年11月場所 千秋楽 ●(12) ○(7) 千代の富士(7)
1983年1月場所 千秋楽 ●(12) ○(8) 琴風
1983年3月場所 14日目 ●(12) ○(9) 千代の富士(8)
1983年5月場所 - - - 北天佑 千代の富士の休場により対戦なし
1983年7月場所 千秋楽 ○(13) ●(9) 隆の里(2) 千秋楽結びの一番1敗同士の相星決戦
1983年9月場所 千秋楽 ○(14) ●(9) 隆の里(3) 隆の里、横綱昇進。千秋楽結びの一番全勝同士の相星決戦
1983年11月場所 千秋楽 ●(14) ○(10) 千代の富士(9) 千秋楽結びの一番1敗同士の相星決戦
1984年1月場所 千秋楽 ○(15) ●(10) 隆の里(4) 千秋楽結びの一番2敗同士の相星決戦
1984年3月場所 - - - 若嶋津 千代の富士の休場により対戦なし
1984年5月場所 14日目 ○(16) ●(10) 北の湖
1984年7月場所 - - - 若嶋津 千代の富士の休場により対戦なし
1984年9月場所 千秋楽 ●(16) ○(11) 多賀竜
1984年11月場所 - - - 千代の富士(10) 隆の里の休場により対戦なし
1985年1月場所 - - - 千代の富士(11) 隆の里の休場により対戦なし
1985年3月場所 - - - 朝潮 隆の里の休場により対戦なし
1985年5月場所 - - - 千代の富士(12) 隆の里の休場により対戦なし
1985年7月場所 千秋楽 ●(16) ○(12) 北天佑 最後の対戦
  • 1983年7月場所以前までの対戦成績は、隆の里の13勝9敗隆の里優勢だった。
  • 1983年9月場所以降の両者横綱同士での対戦成績は、3勝3敗で全くの互角であった。

横綱時代

1983年9月場所は、千秋楽結びの一番において14戦全勝の横綱同士の相星決戦で千代の富士を倒して、新横綱で15戦全勝優勝を果たした。新横綱の全勝優勝は1938年(昭和13年)1月場所の双葉山以来実に45年ぶり、15日制定着後は史上初の快挙である。横綱同士の楽日全勝対決は1960年(昭和35年)3月場所の初代若乃花-栃錦1963年(昭和38年)9月場所の柏戸-大鵬1964年(昭和39年)3月場所の大鵬-柏戸、そしてこの一番まで4度を数えるがこれを最後に25年以上も出ていない(大関が参加した楽日全勝対決は2012年7月場所の白鵬-日馬富士で実現)。この場所の相撲は大関時代のように不利な体勢になるとあわてる癖がなく、識者からは「大関時代とは別人」と評された。

1983年11月場所は千代の富士との13勝1敗同士の相星決戦となり、惜しくも敗れて3連覇(結果からいえば4連覇)は逃したが、同1983年において自身唯一の年間最多勝を受賞した。翌1984年1月場所でも4場所連続で千代の富士との相星決戦となり、13勝2敗で4度目の優勝を果たしたが、これが隆の里の最後の幕内優勝となった。昇進時の「おしん横綱」のほか、僧帽筋が大きく盛り上がった筋骨隆々の体型から「ポパイ」というあだ名もあった。腕力には絶対の自信を持ち、「江戸の雷電と戦ってみたかった」とも話している。

一時期は「千代隆(ちよたか)時代」の到来を期待する声もあったが、1984年3月場所以降は体力の衰えや故障が重なり、成績が徐々に下降する。1984年9月場所11日目、入幕2場所目ながら最後まで優勝を争い「黒船来襲」とおそれられた、前頭6枚目の小錦との初対戦では、強烈な小錦の押し出しに土俵外まで吹っ飛んでしまった。その後1984年11月場所から1985年(昭和60年)5月場所まで、肘の怪我悪化により手術を受けるなどで、4場所連続休場に(途中休場2場所・全休2場所)。再起を挑んだ1985年7月場所で10勝を挙げて一度は復活するが、これが隆の里の千秋楽まで皆勤出場した最後の本場所となった。

翌9月場所は初日から2連敗を喫し3日目から途中休場。11月場所は4日目、関脇北尾(のち双羽黒)を攻めきることができず逆転負け、1勝3敗となったこの時点で新聞各社は引退を疑わなかったが、現役続投で5日目からまたもや途中休場に。進退をかけて臨んだ1986年(昭和61年)1月場所でも本来の力は回復せず、同場所初日に保志(のち北勝海)との取組では肩透かしで敗れたのを最後に、同場所限りで現役引退(当時の年齢33歳3か月)を表明。横綱在位は15場所(約2年半)だった。このように引退時期が遅れたのは本人の引退する意思にもかかわらず、師匠・二子山の許しが出なかったからといわれる[39]

本人が語ったところによると、隆の里の横綱時代に調子がよかった横綱は千代の富士1人しかおらず、そのため師匠に引退を申し出ても2度目までは「横綱は自分の事情だけで辞めるものではない」と諭されたという。その師匠も隆の里から「もう相撲が取れません」と3度目の引退申し出を受けたときに「わかった。春日野理事長に了解をもらってくるから」と言い、涙を流して愛弟子の引退申し出を了承したという[39]

優勝4回は横綱としてはあまり多くはないが、うち2回が全勝であった。最盛期の1983年3月場所〜1984年1月場所の6場所では優勝3回+次点3回で80勝10敗、短期間ながらライバルを圧し最強とみられた点、決まったら必勝の得意な型(右四つがっぷり)をもっていた点、時間をかけて出世した点などは、横綱・三重ノ海と共通する。ただし、大関時代前半には角番を繰り返し大関陥落も経験、2桁勝利がなかなか挙げられず「大関失格」と言われた時期もあった三重ノ海に対し、大関時代の隆の里は1場所を除いて全て10勝以上と終始安定していた点が異なる。

期間の長短はともかく、ライバルが不在がちの千代の富士に対抗した唯一の横綱、という評価も多く、また当時の九重親方(元横綱・北の富士)も隆の里の引退時、「千代の富士が今日あるのは、ライバルとしてここまでした、という隆の里の功績も大きい」という賛辞を贈った。


注釈

  1. ^ 『相撲』2013年11月号34頁の記述によって、元は左四つだったが怪我を理由に仕方なく右四つに変えたことが明らかにされている。
  2. ^ 当時関取未経験だったにもかかわらず師匠からここまでの協力が得られた理由は、隆ノ里が人一倍稽古熱心だったためであるとされる。また二子山親方は現役時代から持病として糖尿病を抱える力士(たとえばよくかわいがっていた弟弟子の若秩父など)を何人も見ていたために病を理解できていたことが影響したとする資料もある。なお、医療事情が充実して人権への意識が高まった平成中期以降では、番付、最高位、将来性に関係なく糖尿病治療食やインスリン投与などのしかるべき治療は受けて現役を続行することができる。
  3. ^ 金城麒麟児は早生まれなので、隆の里と同学年。
  4. ^ 弟子である稀勢の里も琴風の弟弟子の琴奨菊に腰高のところを低い位置からがぶりよられることが多く、苦手にしていた。
  5. ^ 兄弟子・貴ノ花の四股名候補であった「隆ノ花」をベースにして命名。

出典

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