隆の里俊英 親方時代

隆の里俊英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/17 23:37 UTC 版)

親方時代

鳴戸部屋創設

明治神宮に於いて奉納土俵入りを行った稀勢の里

引退後は年寄・鳴戸を襲名して、二子山部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、1989年(平成元年)2月1日付で力櫻ら6人の内弟子を連れて二子山部屋から分家独立して鳴戸部屋を創設した。当初は二子山部屋と同じく杉並での部屋創設を希望したが、地価高騰により千葉県松戸に土地を見つけ、相撲部屋が身近になかったため、騒音があるのではと言ってきた近所の人に、「相撲部屋はうるさくない。」と実証データを示して説得して部屋開きにこぎつけた。若くして糖尿病にかかった影響で出世が遅れ、衰えが早かったが、親方としての手腕は闘病経験が存分に活かされていた。

特に大相撲解説では、分析力は角界随一と呼ばれるほど相撲知識が豊富であり、弟子を指導するときもほかの親方のように、頭ごなしに叱り飛ばすような指導方法は取らず、全員に分かるまで諭すというやり方をとった。本場所中のここぞという勝負どころでは長時間にわたって作戦を細かく授ける周到さもみられた。[40]実際、2010年11月場所2日目に稀勢の里が白鵬の連勝を63でストップさせた一番に関しても、鳴戸はその前夜に「こっちは左を絞って白鵬の右差しを許さず、引いたところを一気に攻めろ。そのとき目の前に上手があれば、ありがたくいただけ」と稀勢の里に策を与えた[41]

弟子を勧誘する際も一部の親方のように、好条件やはったりで釣らず誠実に勧誘するのが方針であったという。ただし、その一方では弟子に対する管理が厳しかった一面があり、「独身者の預金通帳を女将に預けさせ、通帳の使用は許可制」、「弟子が5年間に20人以上引退した時期もある」などという報道がされたことがある[42]

自身が現役時代に糖尿病で苦しんだ経験を持つため、弟子から糖尿病患者は絶対に出さないと誓い、弟子の指導に食育を積極的に取り入れており、食品料理への造詣も深かった。部屋のちゃんこでも既成の食品はほとんど使わなかった[43]

引退後は審判委員を長く続けていたが、当時の現役年寄で千代の富士以前の横綱経験者が全て理事もしくは役員待遇委員なのに対し、隆の里は北の湖や千代の富士より年上にもかかわらず、役員待遇ではなかった。二所ノ関一門に横綱・大関経験者が多すぎることや、横綱時代の実績の差も原因とみられる。

学生相撲出身者を一切採用せず、いわゆる"中卒叩き上げ"力士を数多く入門させ、若の里隆乃若稀勢の里の3力士を関脇へ昇進させるなど、合計7人の関取を育てた手腕が評価されている。部屋の稽古は厳しく、臥牙丸の証言によると朝稽古が午後1時まで長引き、自身は出稽古に1日行っただけでもう二度と行くまいと猛稽古に辟易したという[44]。その一方で、近年では珍しく出稽古を禁じていることに関してはほかの親方から疑問を呈されていた。2009年(平成21年)3月23日の理事長懇談会の席で、武蔵川理事長(横綱・三重ノ海)は「稀勢の里は出稽古に行かないと成長しない」という旨の発言をし、九重広報部長(横綱・千代の富士)もこれに同調した。これに対し鳴戸は

  • 巡業やVTRで相手の研究はできる[45]
  • 自分の考えは師匠の教えを継承している。
  • 自分が現役のときも出稽古にはほとんど行かなかった。
  • 関取は部屋の者を鍛える役目がある。
  • 数日出稽古に参加することで効果があるかは疑問[46]
  • 他の力士との馴れ合いを生む。[40]

という主張で反論している。 双方の意見に対し、元横綱・大鵬の納谷幸喜(当時既に協会を停年退職)は自身の連載[47]で、大鵬が関脇のころ若羽黒のもとへ出稽古したことや初代若乃花に巡業で稽古してもらったこと、横綱になってからは清國玉の海北の富士が稽古にきたことを引き合いに出し、武蔵川理事長らを支持した。

一方で弟子の若の里は、「出稽古は毎日、行きました。佐渡ケ嶽部屋に同じ松戸市だったから、幕下のころから場所前に通っていましたね。親方の車で一緒に行ったかな、自転車で行ったこともある。出稽古禁止=鳴戸部屋とかね、稀勢の里が出稽古したから“出稽古解禁”だって記事を見たけど、出稽古禁止なんて一切ないんです。次第に部屋に関取が増えてきて、自分の部屋で稽古ができたから行かなくなっただけ。そうしたらいつの間にか『出稽古しない部屋だ』となって、そのあと『出稽古禁止』になってしまった。よく朝青龍関や白鵬関も来ていましたしね。松戸の部屋にも、地方場所もよく来ていましたよ。どちらかと言うと、みんなが来てくれる感じになっていったんです。全然だれも受け付けないわけじゃないんです」と発言している[48]。後年、雅山は「(出稽古禁止の方針は)先代(鳴戸)の本心ではなかったと思います。先代は、稀勢の里の性格、稽古場での弱さなどを全部見抜いていたのだと思います。稽古場では力が出ないタイプだから、出稽古に行った先でさんざんやられた場合、考え込んでしまうのではないか? すると、悪いイメージだけが頭の中に残り、本場所での対戦に影響してしまうのではないか? そこまで見越した上での、先代の方針ではなかったのかと僕は思うのです。」[49]と指摘している。

2009年3月場所後、若の里の負傷により稀勢の里は同部屋の関取との稽古が不可能になった。このため鳴戸は特例として同年4月24日に伊勢ヶ濱部屋への出稽古を認めた。稀勢の里によれば「23日に日馬富士が来てくれたから、今度はこちらから行け」と命じられたという。[50]この稽古以降は、2010年5月1日の二所ノ関一門の連合稽古まで出稽古は行われなかった[51]

2010年(平成22年)1月場所後に行われる日本相撲協会理事選に立候補する意思を示していたが、一門の緊急会合で対立候補となる貴乃花親方を支持する多くの親方(その中には同期入門の間垣親方(元2代若乃花)が含まれていた)が事実上破門させられたことを受け、立候補を断念した。大相撲八百長問題を受けて自由競争方式で新弟子を獲得することに対して「派閥や癒着が生まれ、それが八百長を生む温床になりかねない」「環境のよさなどを口説き文句にスカウトするため入門後に厳しく指導できないケースがある」と指摘し、大学や高校で実績を挙げた入門希望者の所属部屋を獲得希望する部屋による抽選で決める「新弟子ドラフト」制度を提言したが、同年11月に急死したこともありこれは実現されなかった[52][37]

2010年理事選辞退

2010年の日本相撲協会役員選挙に際し、二所ノ関一門からの3人目の理事として、鳴戸と貴乃花が立候補を表明。「4人が立候補して何が悪い」という貴乃花派の意見に対し、ベテラン親方らは「一門の総意に従わないのはおかしい」。同じ論調はかみ合わず、議長の放駒親方は多数決を選択した。挙手では「出ていけ」が大多数。貴乃花を支持した6人の親方が退席するという事態となった。票数を減らした同一門は、残る出馬希望者3人から、鳴戸が辞退し、現職の放駒(元大関魁傑)と二所ノ関(元関脇金剛)の理事選擁立を決定。鳴戸と一緒に上京して以来、無二の親友であり好敵手とされた間垣(元横綱2代目若乃花)が貴乃花を支持するという結果になった。

急逝

2011年(平成23年)11月6日、朝は稽古場に姿を現していたが[53]、夜になり体調不良を訴え、39度の高熱があったため、夫人と部屋付きの9代西岩(幕内・隆の鶴)、幕内・若の里に付き添われ、杖をつきながら自力で歩き、福岡市の福岡輝栄会病院に車で向かうとそのまま緊急入院。喘息などの治療をしていたが、午後9時ごろに容態が急変し集中治療室に移された[54]。関脇・稀勢の里が病院に駆けつけた際には意識不明の状態であった。翌11月7日午前9時51分、入院先の病院で家族に看取られながら[55]急性呼吸不全のため死去した。59歳だった[56][57]

晩年の鳴戸は現役時代より体重が30kg以上増え、歩くと少々呼吸が荒くなることがあり、また本場所中に入院し、場所中の監察委員の業務を休んだこともあった。2000年ごろから心臓疾患があり、心臓発作時に服用する薬を常備するほどであった。睡眠時無呼吸症候群も併発したほか喘息に苦しんでおり、放駒理事長(当時)によると、最後は肺炎も起こしていたという[58]。鳴戸の主治医によると両脚に蜂窩織炎もあり、40度の高熱を出すこともあった[59]。若の里は「最後は2人きりで説教されながら、いろんなことを指導されたあとに、『俺ちょっと体調悪いから』と病院に行かれて、それで病院で亡くなってしまったんです。最後の会話は『お前は俺の言っていることは分かっていない』。その後で何か言われたかな…。とにかく説教されていなくなってしまわれたんです」と鳴戸との最後のやり取りを2017年のスポーツ紙の記事で語っている[60]

部屋の力士たちは7日の朝稽古中に師匠の訃報を知らされた。16時25分、病院にて部屋の若い弟子が白い布で師匠の姿を隠し、目を涙でにじませた稀勢の里、若の里、高安が190kgほどある師匠の亡骸を10分以上かけて搬送車に乗せた[55]。当日夕方から福岡市の香椎典礼会館で急遽部屋主催のお別れの会が行われ[57]、鳴戸部屋所属力士や相撲協会関係者が列席した[61]。同時入門の間垣(2代若乃花)は、亡骸に向かいながら「お前何しているんだ、寝てる場合じゃないだろう。早く起きろ」と声をかけ、その後の記者会見では「自分が一歩早く(上位に)上がっても、必ず追いかけてきた。とにかく根性があった。よい弟子に恵まれ、これからというときだったのに…」と語りながら悔し涙を浮かべた[62][63]。その後遺体は19時間かけ、翌8日夕方に千葉県松戸市の鳴戸部屋に戻った[64]。葬儀および告別式は11日午前9時30分より松戸市の斎場にて行われ、夫人が喪主を務めた[65]

死後

11月8日には『週刊新潮』2011年11月3日号および11月10日号の報道による鳴戸部屋での弟子暴行疑惑と十両・隆の山へのインスリン注射疑惑に関する緊急理事会を開催、鳴戸への処分が検討される予定であった[66]。当日の臨時理事会では、西岩の年寄・鳴戸襲名、鳴戸部屋の継承が承認された[67]。隆の山へインスリンを投与問題では、隆の山が鳴戸の糖尿病治療のため処方されたインスリンを自ら注射したことを認めた。

インスリンは世界アンチ・ドーピング機関の禁止薬物に指定されているが、日本相撲協会の規定では禁止されておらず[68]、本人が体重増量目的で師匠の了解を得ていたと説明。稀勢の里による師匠の暴行幇助疑惑は、親方のほうを向かせるために力士をつかんだためと報告された。二人は聞き取り調査の際に放駒理事長から注意を受けた。鳴戸の弟子暴行疑惑に関しては、鳴戸が2006年に弟子を角材などで殴打したと認めていたが、鳴戸本人の急死により調査は打ち切りとなった。

相撲協会は鳴戸部屋に再発防止を命じ、各部屋にも通達を出すとした。しかし、監督官庁である文部科学省中川正春文科相は、閣議後に「調査に影響が出ると思うが、相撲界全体で暴力沙汰の話が出てこないように正常化することが大事だ」述べた。相撲協会は後日、文科省に調査報告書を提出するが、中川文科相は「相撲協会には調査と報告を求めていた。引き続き調査をしてもらう」と真相究明を求めている[69]。また、九州場所の際の恒例である、歴代横綱が参集して会食する『横綱会』はこの一連の事態を受けて中止された[70]

九州場所では稀勢の里が大関昇進をかけており、鳴戸は大関昇進を見越して昇進伝達式用に紋付羽織袴を新調したばかりで、まだ1度しか袖を通していなかったそうである。部屋の力士は急遽名跡変更をした西岩改め14代鳴戸の下で場所に臨み、稀勢の里は大関昇進を決める。場所後、鳴戸の遺影の前で伝達式が行われた。

戒名は隆昌院忍岳俊道居士。横綱経験者だが理事経験がないため、両国国技館での協会葬は行われず、12月14日、二所ノ関一門による一門葬が千葉県松戸市内の鳴戸部屋で行われた。

2012年9月10日、2011年10月下旬に問題となった鳴戸やほかの力士からの暴行や行司からのセクハラを受けた問題に際し、鳴戸部屋に所属していた18歳と22歳の元力士が、行司と鳴戸遺族に対し2200万円の損害賠償要求を千葉地裁松戸支部に提訴した。第1回口頭弁論は10月29日[71]。裁判は2013年12月に部屋の名称が田子ノ浦部屋へと改称されて以降も続いていたが、2014年5月16日に千葉地裁松戸支部は原告の請求を棄却している[72]

2017年3月場所には稀勢の里が横綱に、同年7月場所には高安が大関にそれぞれ昇進している[73]


注釈

  1. ^ 『相撲』2013年11月号34頁の記述によって、元は左四つだったが怪我を理由に仕方なく右四つに変えたことが明らかにされている。
  2. ^ 当時関取未経験だったにもかかわらず師匠からここまでの協力が得られた理由は、隆ノ里が人一倍稽古熱心だったためであるとされる。また二子山親方は現役時代から持病として糖尿病を抱える力士(たとえばよくかわいがっていた弟弟子の若秩父など)を何人も見ていたために病を理解できていたことが影響したとする資料もある。なお、医療事情が充実して人権への意識が高まった平成中期以降では、番付、最高位、将来性に関係なく糖尿病治療食やインスリン投与などのしかるべき治療は受けて現役を続行することができる。
  3. ^ 金城麒麟児は早生まれなので、隆の里と同学年。
  4. ^ 弟子である稀勢の里も琴風の弟弟子の琴奨菊に腰高のところを低い位置からがぶりよられることが多く、苦手にしていた。
  5. ^ 兄弟子・貴ノ花の四股名候補であった「隆ノ花」をベースにして命名。

出典

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