シーア派
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聖地
全てのムスリムの聖地であるマッカ、マディーナ、エルサレム(アル=クドゥス)に加え、シーア派は歴代イマームの霊廟のある都市も聖地とする。とくに重視されるのはイラクのナジャフにある初代アリーの霊廟と、カルバラーにある3代フサインの霊廟である。これに、第7代と第9代の霊廟があるカーズィマイン(バグダード近郊)と、第10代および第11代の霊廟があるサーマッラーを加えたイラクの霊廟のある4都市はアタバートと呼ばれ、大勢の巡礼が詰め掛ける。また、イランのマシュハドには第8代アリー・リダーの霊廟(イマーム・レザー廟)があり、ここも聖地となっている。このほか、イランのゴムにあるアリー・リダーの妹ファーティマ・ビン・ムーサーの霊廟もイラン国内で尊崇を集め、イランではマシュハドに次ぐ聖地となっている。
霊廟4都市はまたシーア派の学問の中心でもあった。イル・ハン国時代にはイラクのヒッラが、その後19世紀中盤まではカルバラーが学問の中心地であったが、1843年にオスマン帝国がカルバラーを制圧したため、そこから逃れたウラマーたちがナジャフに集結し、20世紀前半まではナジャフがシーア派教学の中心となっていた。しかしその後、イラクの独立や社会情勢の変化によってナジャフは衰退し、代わってイランのゴム(コム)に1921年に創設されたホウゼ・ウルミーエ・ゴム学院などの活動によって、ゴムがシーア派教学の中心地となっていった。
歴史
歴代イマーム
ムハンマドの死後、彼の血を引くアリーを後継者に推す声も上がったが、実際にカリフの地位についたのはアブー・バクルであった。以後ウマル・イブン・ハッターブ、ウスマーン・イブン・アッファーンと継承されていったが、ウスマーンの死後アリーが後継者に指名され、656年に第4代正統カリフとなった。しかし、ウスマーンが属していたウマイヤ家のムアーウィヤがこれに反対し、激しい抗争の末アリーは661年にハワーリジュ派の刺客に暗殺され、ムアーウィヤはカリフの地位についてウマイヤ朝を開いた。アリーの子ハサン・イブン・アリーはムアーウィヤと和平を結んだものの、669年にハサンが死亡し、680年にムアーウィヤも死亡すると、ハサンの跡を継いだ弟のフサインがクーファのシーア派の招きを受け、ウマイヤ朝第2代カリフのヤズィード1世に対して叛旗を翻した。しかしクーファはヤズィード軍によって制圧され、フサインは680年にカルバラーの戦いによって殺された。これによってシーア派は政治勢力として完全に力を失い、またスンニ派と決定的に決別することとなった。
フサインの死後もアリーの子孫たちはイマームに就任し続けたものの、やがて誰をイマームとみなすかによってシーア派内でも分派が繰り返されるようになっていった。主流派はフサインの子であるアリー・ザイヌルアービディーンを第4代イマームとして認めたが、これに反対してフサインの異母兄弟であるムハンマド・イブン・ハナフィーヤをイマームとする一派が分派した。シーア派最初の分派であるカイサーン派である。この派は685年に指導者ムフタールのもとでムハンマド・イブン・ハナフィーヤを推戴してクーファで決起し、ムフタールの乱を起こした。この乱でカイサーン派は一時イラクの大部分を支配したものの、687年にクーファが陥落して乱は終結し、さらに700年にムハンマド・イブン・ハナフィーヤが死ぬと、イマームは神によって隠されたとする一派とムハンマドの遺児をイマームとする一派に分裂し、その後も分裂を続けて8世紀には消滅した。しかしこの派の提唱したイマームは神によって隠されたという概念はガイバとしてシーア派諸派に取り入れられ、シーア派を特徴づける概念の一つとなった。
アリー・ザイヌルアービディーンを推戴した一派も、713年に彼が死ぬと再び分裂することとなった。主流派はムハンマド・バーキルを第5代イマームとしたが、その弟であるザイド・イブン・アリーをイマームとする一派が分派し、ザイド派を形成した。ザイド派は21世紀においても有力な宗派として存続している。主流派においてはムハンマド・バーキルが743年に死ぬとその子であるジャアファル・サーディクが第6代イマームとなるが、彼が765年に没すると再び分派騒動が起きた。主流派はジャアファル・サーディクの子であるムーサー・カーズィムをイマームと認めたが、ムーサー・カーズィムの兄であるイスマーイール・イブン・ジャアファルを支持する者たちが分派したのである。この派閥はイスマーイール派と呼ばれ、この後も分派を繰り返しつつニザール派やホージャー派などの宗派を生んだ。ムーサー・カーズィム派はこの後も存続し、8代アリー・リダー(エマーム・レザー、799年 - 818年)、9代ムハンマド・タキー(818年 - 835年)、10代アリー・ハーディー(835年 - 868年)、11代ハサン・アスカリー(868年 - 874年)と続いていくが、ハサン・アスカリーが死去し、その子であるとされるムハンマド・ムンタザルが「神によって隠される」とこの派のイマームもガイバの状態となり、十二イマーム派となった。
シーア派諸政府
ウマイヤ朝の滅亡後、8世紀に成立したイドリース朝は初のシーア派イスラム王朝とされるが、シーア派的要素は少なかった[33]。その後、9世紀にアラヴィー朝が成立し、10世紀にはチュニジア(後にエジプトに移動)にファーティマ朝、イラン高原にブワイフ朝が成立するなど、いくつかのシーア派王朝が建国されたものの、こうしたシーア派王朝のほとんどは上層部のみがシーア派信徒によって占められ、一般市民のほとんどはスンニ派を信仰していた。こうした状況が大きく変動するのは、16世紀初頭にタブリーズでイスマーイール1世によって建国されたサファヴィー朝の時代からである。サファヴィー朝は急進派のシーア派教団であるサファヴィー教団によって建国された国家であり、それまでのシーア派王朝と異なり支配下の民衆にシーア派への改宗を強要した。またイスマーイール1世はレバノンからシーア派のウラマーを招いて教義面での整備を行い、晩年にはサファヴィー朝の宗教観をかなり穏健化させたこともあり、支配下の地域においてはシーア派信仰が徐々に庶民にも広がっていった[34]。こうしたことからサファヴィー朝の版図であったイランにおいてはシーア派の住民が圧倒的多数を占めるようになり、これはその後イラン高原に勃興したガージャール朝やパフラヴィー朝などの諸王朝でも変わらなかったため、イランはシーア派信仰の一大中心地となった。しかしパフラヴィー朝第2代のモハンマド・レザー・パフラヴィーは白色革命と呼ばれる急速な上からの近代化政策を行い、それに反対する保守派のルーホッラー・ホメイニーなどのイスラム法学者を弾圧した。モハンマド・レザーの権威主義的な政策は国内での強い反発を受けるようになり、その反対派の結集の核となったのが保守派イスラム法学者たちであった。1979年2月にイラン革命が起き、モハンマド・レザーが国外に脱出すると、帰国したホメイニーは最高指導者(国家元首)に就任し、イスラム共和制と呼ばれるシーア派法学者が国家を指導する体制を完成させた。ただしこのイスラム政府の成立とそれによるシーア派の政治化は周辺諸国の態度を硬化させ、1980年から1988年までのイラン・イラク戦争をはじめとするイランと周辺アラブ諸国との対立を引き起こすこととなった。
分派
シーア派は、預言者の後継者の地位をめぐって政治的に分裂した経緯をもつため、しばしば正当なイマームとしてアリーの子孫のうち誰を指名するかの問題によって分派した。現在、宗派として一定の勢力をもつのは、十二イマーム派、イスマーイール派、ザイド派などがある。十二イマーム派はイランやイラク、レバノンなどに勢力をもち、シーア派の比較多数派である。図の通り、シーア派諸派が共通してイマームと認めるのはアリーのみである。
十二イマーム派
シーア派の多数派である十二イマーム派は、その名のとおり初代アリーから12代ムハンマド・ムンタザルまでの12人をイマームとする派である。874年に12代イマームが人々の前から姿を消し、ガイバ(隠れ)と呼ばれる状態となったが、その後もイマームは隠れたまま存在しており、最後の審判の日に再臨すると考えられている。なお、874年から940年までは12代イマームの代理人が指名され続け、イマームと信者との接点はわずかながら残っていたものの、940年に4代目の代理人が後継者を残さず死亡したため、以後はイマームとの接点を完全になくすこととなった。このため、十二イマーム派では874年から940年までをガイバトゥル・スグラー(小ガイバ、小幽隠)、940年以降をガイバトゥル・クブラー(大ガイバ、大幽隠)と呼ぶ。
イスマーイール派
イスマーイール派は、7代目のイマームをめぐって十二イマーム派とは別の道をたどった派で、第7代イマームが死んでその子孫の絶えた後に、誰を指導者として推戴してゆくかの問題によって、多くの派に分かれている。もともと主流派では7代イマームの死後、イマームは存在しなくなったと考えているので、イスマーイール派は通称七イマーム派ともいう。イスマーイール派でもガイバの観念はあるが、各分派によってその対象者は異なる。イスマーイール派のうち現在もっとも勢力の強いインド・パキスタンのホージャー派は、イスマーイール派の諸派のうち12世紀にイマーム制度の復活を宣言したニザール派の系譜を引いており、現在もイマームが指導している。
ザイド派
ザイド派は十二イマーム派やイスマーイール派に比べると少数派で、イエメンに勢力をもつ。ザイド派は先の二派と分派したのは5代目のイマームの継承をめぐる問題であったので、五イマーム派と呼ばれることもある。他の有力諸派と異なり、ザイド派はガイバ説を採用していない。
そのほかの分派やイスラムからの分離
シーア派の中にはスンナ派に対して政治的に先鋭的な主張を持ち、スンナ派と一線を画していく中で特に独特の教義を持つに至った分派も存在する。系統不明のアラウィー派やイスマーイール派の流れを汲むドゥルーズ派などは、しばしば他のムスリム(イスラーム教徒)からイスラームの枠外にあるとみられている。バーブ教(バーブ派)やバハイ教(バハーイー派)は既にイスラムから完全に分離したとされている。
注釈
出典
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