I shall return.
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:53 UTC 版)
「ダグラス・マッカーサー」の記事における「I shall return.」の解説
詳細は「レイテ島の戦い」を参照 一旦はマッカーサーに、ミンダナオ島からルソン島へとフィリピンの奪還を認めていたアメリカ統合参謀本部であったが、ニミッツがマリアナを確保したことにより、アメリカ陸海軍の意見が再び割れ始めた。キングはマリアナを確保したことによって、フィリピンは遥かに低い軍事的優先順位となり、フィリピンは迂回して海と空から封鎖するだけで十分であると主張した。同じ陸軍でもアーノルドは、台湾にB-29の基地を置きたいとして海軍のキング側に立ったので、板挟みとなったマーシャルはマッカーサーに、「個人的感情とフィリピンの政情に対する考慮」が戦略的な判断に影響を及ぼさないようにと苦言を呈するほどであった。 フィリピン迂回の流れに危機感を覚えたマッカーサーは、マスコミを利用してアメリカ国民の愛国心に訴える策を講じた。アメリカの多くの新聞が長期政権を維持し4選すら狙っている民主党のルーズベルトに批判的で、共和党びいきとなっており、共和党寄りのマッカーサーを褒め称える論調を掲げる一方で、民主党のルーズベルトに対しては、一日も早く戦争に勝利するためもっとよい手を打つべきなどと批判的な報道をし、ルーズベルト人気に水をさしていた。マッカーサーは新聞等を通じ「1942年に撃破された我々の孤立無援な部隊の仇をうつことができる」「我々には果たせねばならない崇高な国民的義務がある」などと主張し、自分がフィリピンを解放しない場合にはアメリカ本国でルーズベルトに対し「極度の反感」を引き起こすに違いないと警告した。このようなマッカーサーの主張に対して陸軍参謀総長のマーシャルは「個人的感情とフィリピンに対する政治的考慮が、対日戦の早期終結という崇高な目的を押しつぶすことのないよう注意しなければならない」「フィリピンの一部あるいは全部を迂回することは、フィリピンを放棄することと同義ではなく、連合軍が早期に日本軍を撃破すればそれだけマニラの解放は早くなろう」とマッカーサーに手紙を書き送っている。1944年6月から開始されたニミッツによるマリアナ諸島の攻略戦は、サイパンの戦い、グアムの戦い、テニアンの戦いの激戦を経てアメリカ軍の勝利に終わったが、アメリカ軍の被った損害も大きかったため、マッカーサーや共和党支持の保守系の新聞は、フィリピン攻撃は最小限のアメリカ人の犠牲で同じ戦略的利点を獲得すると主張した。マッカーサーに心酔する『バターン・ギャング』で固められた幕僚たちも不平不満を並べ立てて、国務省や統合参謀本部やときにはルーズベルト大統領までを非難した。 マッカーサーの思惑通り、アメリカ軍内でフィリピン攻略について賛同するものも増えて、太平洋方面の前線指揮官らはマッカーサーに賛同していた。一方でキング、マーシャル、アーノルドはフィリピン迂回を譲らず、アメリカ軍内の意見も真っ二つに割れていた。ルーズベルトはこのような状況に業を煮やして、マッカーサーとニミッツに直接意見を聞いて方針を決めることとし、1944年7月26日に両名をハワイに召喚した。ニミッツは自分の上官であるキングの意見を代弁することとなったが、ニミッツ自身は考えがまとまっていなかったため、作戦説明は迫力を欠くものとなり、マッカーサーの独壇場となった。マッカーサーは何度も「道義的」や「徳義」や「恥辱」という言葉を使い、フィリピン奪還を軍事的問題としてより道義的な問題として捉えているということが鮮明となった。さらにマッカーサーはキングが主張するフィリピンを迂回して台湾を攻略するという作戦よりは、フィリピン攻略のほうが期間が短く、損害も少ないと主張した。ルーズベルトは「ダグラス、ルソン攻撃は我々に耐えられないくらい大きな犠牲を必要とするよ」と指摘したが、マッカーサーは強くそれを否定した。そのあとルーズベルトとマッカーサーは10分ほど二人きりとなったが、その時マッカーサーは1944年の大統領選を見据えて、「アメリカ国民の激しい怒りは貴方への反対票となって跳ね返ってくる」と脅している。ルーズベルトはマッカーサーが一方的に捲し立てた3時間もの弁舌に疲労困憊し、同行した医師にアスピリンを2錠処方してもらうと「私にあんなこと言う男は今までいなかった。マッカーサー以外にはな」と語っている。マッカーサーもルーズベルトの肉体的な衰えに驚いており、「彼の頭は上下に揺れ、口は幾分ひらいたままだった」と観察し、「次の任期まではもたない」と予想していたが、事実その通りとなった。翌日も引き続き会談は続けられ、会談終了後に海軍が準備した楽団、歌手、フラダンスによるショーにルーズベルトから誘われたマッカーサーではあったが、すぐに前線に戻らないといけないと断り、ハワイを発とうとしたときに、ルーズベルトから呼び止められ「ダグラス、君の勝ちだ。私の方はキングとやりあわなければらないな」とフィリピン攻略を了承した。かつての卓越した雄弁家も、肉体の衰えもあって完全に舞台負けした形となった。 ルーズベルトの方針決定により統合参謀本部はマッカーサーにフィリピン攻略作戦を承認した。海軍はフィリピンでマッカーサーを援護したあとは台湾を迂回し、その後沖縄を攻略すると決められた。マッカーサーはまずは日本軍の兵力の少ないレイテ島を攻略してその後のフィリピン全土解放の足掛かりとする計画であった。マッカーサーはレイテに20,000人の日本軍が配備されているとみていたが、その後に増援を送ってくると考えて、今までの太平洋戦域では最大規模の兵力となる174,000名の兵員と700隻の艦艇と多数の航空機を準備することとした。この頃には、ノルマンディー上陸作戦の成功でヨーロッパの戦局は最終段階に入ったものと見なされて、ルーズベルトやチャーチルといった連合国の指導者たちは太平洋の戦局に重大な関心を持つようになっており、膨大な戦力の準備が必要であったマッカーサーにとっては追い風となった。事前にレイテの航空基地はウィリアム・ハルゼー・ジュニア中将率いる第38任務部隊の艦載機に散々叩かれており、1944年10月20日にアメリカ軍は大きな抵抗を受けることなくレイテ島に上陸した。マッカーサーも同日にセルヒオ・オスメニャとともにレイテに上陸したが、上陸用舟艇で海岸に近づいたマッカーサーは、待ちきれないように接岸する前に海に飛び降りて足を濡らしながらフィリピンへの帰還を果たした。 マッカーサーは日本軍の狙撃兵が潜む中で戦場を見て回り、狙撃されたこともあったが、弾を避けるために伏せることもしなかったという。10月23日には旗艦としていた軽巡ナッシュビルの通信設備を使って、演説をフィリピン国民に向けて放送した。その演説の出だしは「フィリピン国民諸君、私は帰ってきた」であったが、興奮のあまり手が震え声が上ずったため、一息入れた後に演説を再開した。日本の軍政の失敗による貧困や飢餓に苦しめられていた多くのフィリピン国民は、熱狂的にマッカーサーの帰還を歓迎した。マッカーサーはその夜には司令部をナッシュビルから、レイテ島で大規模なプランテーションを経営していたアメリカ人事業家の豪邸に移したが、この豪邸は日本軍が司令官用のクラブとして使用していたため、敷地内に電気や換気扇や家具まで完備した塹壕が作られていた。前線司令部としては相応しい設備であったが、マッカーサーは前回フィリピンで戦った際に部下将兵から名付けられた「Dugout Doug(壕に籠ったまま出てこないダグラス)」というあだ名を知っており、また揶揄されることを嫌い「埋めて平らにしてしまうのだ」と命じている。
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