敗北の記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:18 UTC 版)
開戦 12月8日未明に日本が真珠湾攻撃。引き続きpm0:35にフィリピン空軍基地を攻撃。ミンダナオ島に移動していた16機のB17爆撃機をのぞいた、ほとんどすべての飛行機(B17爆撃機18機、P40戦闘機53機など)を失った。 日本の陸軍機307機、海軍機444機、合計751機のすさまじい攻撃にさらされた。 退却 12月22日、日本軍がリエンガン湾に上陸。24日マッカーサーはマニラを放棄し、コレヒドール島とパターン半島に籠城。 コレヒドール戦 本国から食料の補給は来ない。1000kcal以下/日の食料で10万人以上が籠城。 ケソンの怒り 籠城しながらケソンは、これは米日の戦争であるから、フィリピンは中立をとりたいと主張する。 脱出 オーストラリアへ脱出するよう本国からの命令あり。1942年3月11日、ウェーンライトにあとをまかせて高速魚雷艇で脱出。 「私は帰る」 オーストラリアに到着。記者団に以下のように「私は帰る」と語った。5月にウェーンライト指揮下のフィリピンの米軍10万余が降伏。 「最大の目標はフィリピンの救援にある。わたしはやってきたが、わたしは帰る。」 "the primary purpose of which is the relief of the Phillippines. I came through and I shall return." 反撃計画 4月南西太平洋方面軍総司令官。日本はニューギニアを西から東へ侵攻。
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