1977-88年: 結成、インディーズ時代とは? わかりやすく解説

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1977-88年: 結成、インディーズ時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:20 UTC 版)

X JAPAN」の記事における「1977-88年: 結成、インディーズ時代」の解説

幼稚園の頃からの幼馴染だったYOSHIKITOSHIは、小学校高学年アメリカハードロックバンドKISS」の話をする間柄であり、共にバンドを組む約束をしていた。 小学6年時にDYNAMITEダイナマイト)(1977年 - 1978年)、中学校進学NOISEノイズ)(1978年 - 1982年)を結成。主にレッド・ツェッペリンUFOレインボーなどのコピー曲を中心に演奏中学校予餞会が初ライブだった。その後通っていた中学校生徒増加に伴う分割によりボーカル別の中学編入されたため、当初ギターだったTOSHIボーカル転向地元安房高校進学した2人その後バンド続けていたが、進学問題他のメンバー脱退他校メンバー加えて1982年夏、高校2年生時に始めたのがXだった。高校時代文化祭では「We are X」、当時未完成だったI'LL KILL YOU」などを演奏していた。 高校卒業後の進路として音楽大学推薦入試受験する予定だったYOSHIKIが、入試1週間前に進学取り止めロックバンドとして成功する道を選び1984年TOSHI結成時のメンバーTERRYと共に活動拠点東京移した。又、ベース担当ATSUSHIギター担当TOMO加入した上京後2人は、何のツテもない状態でメンバーライブハウス探し1年後1985年にはバンドとして体裁を何とか整えられた。同年6月1作目シングルI'LL KILL YOU」をDada Recordsからリリース1986年YOSHIKI自身レーベルエクスタシーレコード」を設立し2作目シングルオルガスム」をリリースするこの頃になるとファンある程度定着したが、メンバーは常に流動的で、YOSHIKI1日何時間も練習する姿勢見切り付けられることが原因であることが多く存在判明していないのを含めると脱退したメンバー20人は超えるYOSHIKI難し注文答えてくれるだけではなく自分方針忠告をしてくれて、且つお互い個性認め合い尊敬成長し合えメンバー探していた。 その後一時期Xに加入していたTAIJI1986年年末に再び加入1987年ビクターから発売されオムニバス・アルバムSKULL THRASH ZONE Vol.1』のレコーディングPATAヘルプ参加その後1987年初めには、SAVER TIGER解散させ美容師になる決心をしたHIDEYOSHIKI説得し、Xに加入させた。交通事故起こしたISAO脱退後PATA正式にメンバーとなり、メジャーデビュー時のメンバー揃ったライブ・ハウスでは、メンバー暴れて火を吹いたYOSHIKIシンバルガソリン注いで燃やすなどのパフォーマンス敢行し、数々ライブハウスから出入り禁止となった打ち上げでも喧嘩絶えず店がメチャメチャ壊れるなどトラブル続きだったため、ロックミュージシャンが居酒屋へ入る際にはYOSHIKIがいないか店にチェックされた程であり、当時のインディーズメタル事情に詳しい漫画家喜国雅彦によると、当時渋谷居酒屋ミュージシャン同士喧嘩多かった事から「ギターお断りミュージシャンお断りバンドマンお断り極めつけ名指しで「Xお断り」と貼り出された店もあったという。その特異な行動から、HIDE率いSAVER TIGERTAIJI在籍したDEMENTIAと共に関東三大粗大ゴミバンド」とバッシング対象になった。なお、当時DEMENTIA在籍していた小杉茂(現ハウリング・ブル・エンターテイメント代表取締役社長)によると、この呼び名名付け親UNITEDメンバーではないか推測している 「いくら良い曲を作っていても聴いてもらえなければ意味が無い」という考えから「知名度が必要」と判断し日本テレビ天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の「ヘビメタコーナー」に出演していた。ステージ衣装のままで競技を行う「ヘビメタ大運動会」や、「早朝シリーズ」(就寝中の芸能人部屋侵入してバズーカなどの爆音起こす名物コーナー)の一つである「早朝ヘビメタ」などで話題となる。狭い食堂で「オルガスム」を演奏する番組企画「やしろ食堂ライブ」は、HIDEのX加入後の初仕事となった。この「やしろ食堂ライブ」の放送回は、ビートたけし起こしたフライデー襲撃事件」の謹慎明け初回出演放送であり、なおかつ最初のコーナーだったため日本全国から注目されていたこともあり、全国区へ知名度広げる抜群機会となった。 しかしその世界観硬派イメージ保とうとする当時音楽業界、特にロック界の風潮の中で「(音楽番組以外のテレビ出演」はタブー視されていたため、業界関係者他のバンドから「ヘヴィメタルお笑いネタにされた」として厄介者レッテルを貼られていた。 テレビ出演きっかけ知名度全国区へ広まったXは、当時デモテープ配布すら滅多に無かった時代オリジナル映像収録したVHSを客に配布した。この時、他にも配布するものとして、冷蔵庫電子レンジトラックなどのアイデア出ていた。他のバンドよりプロモーション積極的に行っていたため、他のバンドからは金持ちバンドとしてみられていた。 1988年4月1作目アルバムVanishing Vision』をリリース発売1週間で、当時としては異例初回プレス1万完売した。『Vanishing Vision』は、メジャー・レーベルから発売される可能性もあったが、YOSHIKIは「インディーズでまだ何も残していない」として、敢えてエクスタシーレコードからリリースした並行して数社とのメジャーレーベルとの契約交渉進め、Xを巡ってレコード会社の間で争奪戦となったが、最終的にCBS・ソニー契約。XがCBS・ソニー契約した理由は、交渉あたった他社ディレクター達があまりに横柄な態度とっていたため。これにメンバー怒り覚え交渉冷静に対応できるYOSHIKI担当したといわれる契約金契約期間などの条件が最も低かったことも「絶対に売れてこいつらを見返してやる」という反骨心生まれ契約決めた一因となった契約したCBS・ソニー交渉当初積極的ではなかったが、当時スカウト育成部門所属だった津田直士新規プロジェクトチーム配属となった事から、津田自らがディレクターとなりXと会社説得マネジメントまで引き受けることとなった同時にX専用プライベート・レーベルSIREN SONG」が設立された。 なお、ライブお馴染みとなっているXジャンプ起源は、1988年7月19日仙台ライブハウス『フォーラスモーニングムーン』で行われたライブである。2度目アンコールで「X」を演奏していた際、サビ部分ギターHIDEが突然ジャンプをして、観客にもジャンプするようジェスチャー煽ったのをきっかけ始まった。この時ジャンプ応じたファン数人であったが、ステージ上でHIDE様子見ていたベースTAIJI直後からジャンプ応じ、少し遅れてPATAジャンプし始めた。しかしまだ慣れていないため、ジャンプするたびに3人とも音が外れてしまっていた。 1988年6月24日には、スピンオフ的な企画としてL.O.Xのレコーディング開始した。L.O.XはLip CreamNAOKIギター)、ORANGEACTベース)、XのYOSHIKIドラムスクレジットは「白鳥麗REI)」)で結成されたハードコア・パンク・バンドである。

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