1955年の新駅
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「ハイデルベルク中央駅」の記事における「1955年の新駅」の解説
1955年5月5日に、新しいハイデルベルク中央駅が連邦大統領テオドール・ホイス臨席により開業した。かつてハイデルベルクに数年間住んでいたことのある大統領は、ブルッフザールからの特別列車でハイデルベルクに到着した。実際の駅の営業は5月7日から8日にかけての夜から開始された。これは、旧駅まで暫定的に結んでいた2か所の築堤を撤去する必要があったためである。この築堤の下に、新駅への線路が既に建設されていた。営業開始初日には、分岐器に関する技術的な問題と、人員が新しい設備に慣れていなかったことにより、初期問題が発生した。新しいダイヤでは、それまでハイデルベルクの駅の容量問題によりハイデルベルクを迂回していた18本の長距離列車がハイデルベルクに停車するようになった。 新しい駅舎はドイツ連邦鉄道の重役、ヘルムート・コンラディ (Helmuth Conradi) が設計した。彼は1920年代にパウル・シュミッテナー(ドイツ語版)やパウル・ボーナッツから建築を学び、シュトゥットガルト学派(ドイツ語版)の影響を受けた。縦のガラスの壁を持つ駅舎は、ナチス時代にハンス・フレーゼが設計したように、線路に対して50度の角度を付けて建てられた。長さ53 mの南側の壁には、幅16 m、高さ12 mのホールの部分に、カール・ヨーゼフ・フーバーによる「ヘリオスと太陽の戦車」のズグラッフィートがある。線路に並行して2番目の建物があり、1階には小荷物および急行貨物の受付、待合室、レストラン、2階には連邦鉄道の管理事務所などが入っている。2つの建物の間の部分には両方につながる螺旋階段がある。駅舎から突き出して、全長91 m、幅20 mのプラットホームに通じる跨線橋ホールがある。このホールの屋根はプレストレスト・コンクリートによりカーブを描いた形で造られている。 1955年に開業した時点で、駅舎は「近づきづらいガラス箱」と批判を受けた。後に跨線橋ホールについては「建築上・運営上卓越している」と評価された。長いガラスのファサードはかつて鉄道の建物にはなかった「優雅さと明るさ」を持ち、「1950年代の建築の理想: 透明・明るさ・雄大さ」に対応していると言われた。バーデン=ヴュルテンベルク州の歴史文化財事務所が2010年に発行した文献によれば、ガラスのファサードの新しさが、比較的強くネオクラシカルなコンクリートの屋根の支柱を備えた駅舎の垂直構造と対照をなしている。 中央継電連動信号扱所は駅舎に収容されている。旧駅に10か所あった信号扱所を置き換え、信号扱手の数をそれまでの45人から7人に削減した。西側にはアメリカ陸軍のために別にプラットホームを備えた専用地区があった。小荷物と郵便物を列車に積み込むために、2本の荷物用地下道が掘られた。それまで一般的であったエレベーターに代えて、プラットホームへの接続には坂道が用いられた。西側から来てハイデルベルク終着となる列車のために、機関区のそばに12本の番線を持つ留置線と車体洗浄設備、車両工場が設けられた。さらなる到着列車のために駅の東側に4本の留置線が設けられた。 新しいハイデルベルク中央駅は1955年から完全に電化されていたため、入換機関車としては電気機関車が使用されていた。最初にハイデルベルクに配置されたのはE69型(ドイツ語版)で、1964年にE60型(ドイツ語版)に置き換えられた。また1962年からはハイデルベルク機関区に初めて急行用の機関車としてE10型が、そして近郊用電車としてET56型(ドイツ語版)が配置された。ハイデルベルクへの蒸気機関車の運行は1965年に終了し、石炭の取り扱い施設も1968年に閉鎖された。1970年時点では入換機関車と電車のみがハイデルベルクに配置されていた。1989年5月に機関区は廃止となった。 1966年にシュヴェツィンゲンへの支線が廃止となり、1990年代には多くの長距離列車がハイデルベルクを通らなくなった。新しいハイデルベルク中央駅の開業40周年に際して、ハイデルベルクの新聞「ライン=ネッカー=ツァイトゥング(ドイツ語版)」では、1955年時点での予想に反して、駅は国際鉄道輸送に不適合になってきているとした。2003年春にはバリアフリーのために、跨線橋ホールとプラットホームを結ぶエレベーターが設置された。長距離列車用のプラットホームについては、1987年時点でエスカレーターが設置されていた。2003年12月には、ハイデルベルクはラインネッカーSバーンの拠点となった。ドイツ鉄道の南西地区の信号扱いはカールスルーエに集約されたことから、中央信号扱所は2006年に機能を停止した。信号扱所の建物はそのまま存置されている。 1997年7月に郵便物の鉄道輸送が廃止になったことから、駅の南側、モンペリエ橋の近くにあった鉄道用の郵便局も廃止となった。同じく1997年には、マンハイム操車場(ドイツ語版)に機能を譲って、ハイデルベルクの操車場と貨物駅は廃止となった。もともと1日2,500両を扱えるように設計されていたのだが、最後の頃は1日400 - 500両程度に過ぎなかった。貨物駅と機関区の跡地には、新しい街区としてバーンシュタット(ドイツ語版)(鉄道の町という意味である)が設定され、最初の建物の建設が2010年に開始された。バーンシュタットの開発を促進するため、2011年1月から跨線橋ホールを南側へ伸ばす工事が行われている。
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