1955年の事故とは? わかりやすく解説

1955年の事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:14 UTC 版)

ル・マン24時間レース」の記事における「1955年の事故」の解説

詳細は「1955年のル・マン24時間レース」を参照 1955年発生し多数死傷者出したこの事故は、モータースポーツ界に大きな影響与えたのみならず事故当事者となった自動車メーカーその後経営にも大きな影響与えることになった1955年6月11日1828分、トップ走っていたジャガーマイク・ホーソーン周回遅れオースチン・ヒーレー抜いた直後急減速してピットインした。後続オースチン・ヒーレードライバー、ランス・マクリンが追突避けよう進路変更したところへメルセデス・ベンツ運転するピエール・ルヴェー避けきれずに衝突し乗り上げ空中飛び上がった。 ルヴェーのメルセデスはグランドスタンド側壁衝突し車体分解し炎上衝撃エンジンサスペンションそのまま勢いで観客席飛び込み観客スタッフ、そしてルヴェーも含めて86人が死亡、約200人が重軽傷という大事故となった当時サーキットにはピットコースを遮るピットウォール存在せず、またピットロード存在していなかった。これはサルト・サーキットに於いて例外ではなくピット前での接触事故高頻度起きていたとされる)。 なお、このレース事故後も続行された。「たとえどんな惨事起きようとも、戦い続けるのがスポーツルールである」ことが続行理由であった他、レース中断する帰路についた観客サーキット周り周辺道路塞ぎ救急車動けなくなる、といった事態を防ぐための主催者側判断よるものであった皮肉にも優勝者大惨事きっかけとなったマイク・ホーソーンであった。 この事故映像は、映画『グレート・ドライバー(原題"Fangio")』等で観ることができる。またルヴェーのチームメイト当時彼の後方走行コクピットからその一部始終目撃したファン・マヌエル・ファンジオは、この映画の中でホーソーンピットイン物議を醸したが、ピット手前360mからの減速ルール問題はなかった。マクリンホーソーン左側から追い越し、さらに別の1台(カール・クリングメルセデス)がコース左側からピット向かって進路を右に変えた結果、ルヴェーが行き場を失い悲劇招いた自分奇跡的に無傷現場通過出来たが、背後地獄だった」と、いわゆる「レーシングアクシデント(特定のドライバー責任帰しないレース中のアクシデント)」であったことを模型用いて解説している。ちなみに事故後の調査ファンジオ乗ったメルセデス車体ホーソーン乗ったジャガー塗装がこびり付いていたことでごく僅か接触していたことが判明しファンジオが突然ピットインしたホーソーンマシン辛うじて回避できたことを証明している。 メルセデス・ベンツチームはトップ走行していたが、事故発生7時間半後、全マシン呼び戻すと、そのまま棄権した。そして事故一部始終目の当たりにしたファンジオはその多大な精神的ショックから、それ以来生涯ル・マン24時間レースに姿を見せことはなかった。事故10分後には大破したマシン残骸メルセデススタッフ必死になって回収していたことが確認され、これに関して後に「ニトロメタンなど特殊な添加剤用いていたのではないか」と(事故の原因とはならない規定違反を疑う声があったが、これについてメルセデスファンジオは「あんな素晴らしい車にそんなものいらないよ」と笑い飛ばし、アルトゥル・ケザーは「燃料噴射システム秘密知られないため」という趣旨発言をしている。 「モータースポーツの安全性」という点に大きな疑問投げかけたこの事故の影響は非常に大きく、後に開かれる予定だったスペイン西ドイツグランプリレース中止、フランス・イタリアでも政府許可が出るまでモータースポーツ開催されず、スイス至ってレースそのもの禁止された など全世界大きな影響残している。 F1も例外ではなく1955年主催者キャンセルするなどして3戦も中止になっているが、その後モータースポーツ全体での安全性向上の礎にもなっている。メルセデス・ベンツ自体も、1985年のル・マン24時間レースザウバー・C8にて復帰するまで、実に30年渡りル・マンひいてはモータースポーツから姿を消すこととなった。 なおこの事故の詳細記した書籍として『死のレース 1955年 ルマン』が存在する事故から20年後に事故当事者一人であるランス・マクリンが著者電話初め明かした事実の他に、写真関係者の証言含めた事故の詳細当事者であるマクリンホーソーンジャガーそれぞれの人物像レース後のそれぞれの動向著されている。 1999年レースに於いてメルセデス・ベンツは、前年たった2時間全滅した屈辱晴らすために投入したAMGメルセデスCLRが、予選フリー走行、そして決勝3度渡って宙を舞う事態見舞われ、「1955年悪夢再びか」と騒がれた。明らかにマシン空力上の問題点から起きた事故であることから、これ以上走行は危険と判断され、この時もメルセデスは再びル・マンから去り2021年現在ルマンには復帰していない。 事故当事者1人であったランス・マクリンは、その後モータースポーツ世界離れてカーディーラー経営者となったが、2002年この世去っている。

※この「1955年の事故」の解説は、「ル・マン24時間レース」の解説の一部です。
「1955年の事故」を含む「ル・マン24時間レース」の記事については、「ル・マン24時間レース」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「1955年の事故」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「1955年の事故」の関連用語

1955年の事故のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1955年の事故のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのル・マン24時間レース (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS