1955年の橋
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橋は久下冠水橋(くげかんすいきょう)とも呼ばれ、1955年(昭和30年)7月19日に開通した。橋の施工は久下にある株式会社新井組が行なった。開通当時は市町村道の橋梁だったが、地元住民の埼玉県への陳情により1966年(昭和41年)4月に県道(埼玉県道257号冑山熊谷線)に昇格されている。全長282.4メートル、幅員2.7メートル(一部4.5メートル)で、橋脚は44本。車幅制限は2.0メートルで重量制限は3.0トンである。橋脚が鋼製(一部コンクリート製)、橋桁が木製の冠水橋であった。欄干は初めは付けられていなかったが住民の要望に応じ、1968年(昭和43年)6月頃に鉄パイプを立ててワイヤーを張った簡素な欄干が設置された。この欄干は洪水の際に着脱が可能なものである。元々は中洲を挟み熊谷側と大里側にそれぞれ橋が架けられていたが、洪水などで中洲が消失した他、橋の破損の補修を繰り返しているうちに1本の橋に繋がったものである。橋の中央部の幅員がやや広くなっているのはその名残である。また、橋の損壊の他、橋の修繕の際にも通行止めの措置が取られ、1986年(昭和61年)11月15日から12月15日までの1ヶ月間はそれより通行止めとされた。道幅が狭く自動車のすれ違いができなかったため、対岸の車両との譲り合いが前提となっていた。この譲り合う姿により「思いやり橋」とも言われていた。 1970年代から永久橋に架け替える計画が存在しており、1977年(昭和52年)10月11日に久下・佐谷田地区内関係者を対象に地元公民館で説明会が行われたが、生活に密着した身近な橋であったことや騒音問題を危惧したことなどから、地元住民によって「久下橋かけかえ反対期成同盟会」が結成され、住民と行政にて長期に亘る協議・交渉が行われた。 珍しい構造の橋であることから文化的意味合いもあって、地元では撤去を惜しむ声が強く「久下橋を残す会」が結成され署名運動が行われ約四千名の署名が集まったことで保存も検討されたが、老朽化が著しく河川の管理上や財政上の問題もあり、各種方面との協議の結果、最終的に撤去する結論に至った。 埼玉県道最後の冠水橋であった旧橋は、現行橋の開通に伴い、2003年(平成15年)6月15日午後5時をもって通行止となり50年近い歴史に幕を閉じ、同年度中に撤去された。なお撤去を担当したのも建設時と同じ新井組だった。 2004年(平成16年)9月4日に左岸側の旧橋跡付近に記念碑・説明板と旧橋主桁部の廃材で作製されたベンチが有志による募金にて設置された。 東側、右岸から 東側、左岸から 熊谷市街地方面を望む 左岸堤防から 旧橋撤去作業
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1955年の橋
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先代の橋が架橋から約40年が経過し老朽化したため、ほぼ同様の位置に旧橋のデザインを踏襲した鋼製で、ほぼ同様な構造の鋼上路2ヒンジトラスドアーチ橋として架け替えられ、1955年(昭和30年)開通した。これが現在の登竜橋である。橋の施工は松尾橋梁(現、IHIインフラシステム)が行なった。また、橋面(床版)は木製からコンクリート製に変わり、高欄の宝珠柱は架け替え前の14箇所から10箇所に省略された。橋面は旧橋にあった階段状の凹凸は特に設けられていない。竣工当時は秩父郡大滝村に架かる大滝村管理の橋であったが、2005年(平成17年)4月1日の合併(平成の大合併)により、大滝村は秩父市に合併され、秩父市管理の橋となった。登竜橋は架設から50年以上が経過し、近年橋の床板の背面にコンクリートの剥落により内部の鉄筋の腐食や露出が見られるため、秩父市による補修が望まれていた。2017年(平成29年)には橋の劣化した塗装の塗替工事が実施されている。
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