1955年シーズンの成績
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「メルセデス・ベンツ・300SLR」の記事における「1955年シーズンの成績」の解説
ダイムラー・ベンツは1954年からF1と並行してスポーツカー世界選手権に参戦する計画だったが、F1のスケジュールに忙殺されて実行できなかった。開発用の1号車はF1イタリアGPのレース後モンツァ・サーキットでテスト走行を行い、W196から3秒落ちというタイムを出した。 実戦用マシンの完成はさらに遅れ、1955年シーズン開幕後も第2戦まで欠場した。この間、ノンタイトルレースのブエノスアイレスGPではW196シャーシに300SLRの3リッターエンジンを搭載して予行演習をしている。 ミッレミリア 300SLRのデビュー戦は4月の選手権第3戦ミッレミリア。4台体制で出場し、スターリング・モス / デニス・ジェンキンソン組(4号車)がファン・マヌエル・ファンジオ(3号車)に30分の差をつけて優勝した(残る2台はリタイア)。平均速度157.7km/hは新記録で、1957年に大会が終了するまで破られなかった。 土地鑑のある地元ドライバーに対抗するため、彼らは入念な試走を行っていた。モータースポーツジャーナリストのジェンキンソンはロールペーパーに記したペースノートを小箱の中で巻き取りながら、コースをナビゲートした。エンジンの爆音で声が通じないため、あらかじめ決めていた手のサインで指示を行った。 ル・マン24時間レース 「1955年のル・マン24時間レース」も参照 6月の第4戦ル・マン24時間レースには3台6名体制で出場。ファンジオ / モス組(3号車)がジャガーのマイク・ホーソーン / アイバー・ビューブ組と首位を争った。しかし、ピエール・ルヴェーの乗る6号車が周回遅れと接触して宙を舞い、グランドスタンドの観客80名以上を巻き添えにする大惨事を引き起こした。残る2台はその後も1・3位を走行したが、本社の指示によりレースから撤退した。 ツーリストトロフィー 9月のツーリストトロフィーには3台6名体制で出場し、モス / ジョン・フィッチ組(4号車)が優勝。ジャガーのリタイアによりファンジオ / カール・クリング組(5号車)が2位、ヴォルフガング・フォン・トリップス / アンドレ・シモン組(3号車)が3位と完全優勝を果たす。 タルガ・フローリオ 選手権タイトルを決する10月の最終戦タルガ・フローリオには3台6名体制で出場。モス / ピーター・コリンズ組(4号車)はモスのコースアウトにより一時後退するも、助っ人コリンズの力走によりトップを奪回し優勝。シリーズポイントを24点とし、22点(有効ポイント)のフェラーリを逆転してマニュファクチャラーズ選手権を初制覇した。ファンジオ / クリング組(5号車)は2位、フィッチ / デズモンド・ティタリントン組(3号車)は4位。 そのほか、5月のアイフェル・レンネン(ニュルブルクリンク)、8月のスウェーデンGP(クリスチャンスタード)という非選手権2レースでもファンジオが優勝しており、300SLRは出場6レース中5勝という見事な成績を収めた。チームは1956年シーズンに向けて軽量化したエンジンの開発を進めていたが、本社がレース活動からの全面撤退を発表し、300SLRの活躍は1シーズンのみで終了した。
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