関流の勃興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 00:52 UTC 版)
和算における解析学に関連した研究を円理といい、関孝和の登場以降大いに発達した。円理という名は、円周率や円積率、球の体積や表面積が主な問題となったことによる。関孝和は円に接する正多角形の辺の長さを用い、円周率を11桁まで得ている。 関の弟子である建部賢弘は同様の手法をRichardson補外と組み合わせて、42桁まで正しい値を計算している。彼はさらに進んで、綴術いわゆる無限級数とその導出法を編み出し、それにより関孝和の成しえなかった弧背の長さなど円理における各種計算法を導き出し得た。その著『綴術算経』では(arcsin x)2の冪級数展開を世界で初めて計算している。また、同年に大阪の鎌田俊清もarcsin(x), sin(x)の冪級数展開を求めた。 建部賢弘の弟子中根元圭は天文学の洋学による知識の必要性を説いて、当時キリスト教排除においてなされた洋書の輸入禁制を緩めることを、その主人である将軍徳川吉宗に進言したといわれ、ついに実行されるに至った。それによって、西洋の天文暦算を解いた清朝の梅文鼎の『暦算全書』や『数理精蘊』などの書が伝わり、暦学者や算学者の目にとまった。これらの書により、西洋数学の諸結果がもたらされ、対数や三角法などあらたな分野に興味が開かれるようになった。 関孝和以後は荒木村英がその伝を継ぎ、さらにその弟子松永良弼がその流派を「関流」と称えるようになって、以降関流の算法は、他流派を抜いて大いに発達し、数学界にその権威を誇った。 松永良弼は関孝和や建部賢弘の研究を推し拡め、親友久留島義太の影響を受けながら、 円理 極数術 - 極大極小論 整数術 - ピタゴラス数など整数を作る問題 変数術 - 順列・組合せ数学 廉術(逐索) - 帰納的な考えによる公式の導出法 などを確立させた。 久留島義太は、関流の門下ではなかったが、その天才によって独学で算術に達し、のち関流の中根元圭に才能を見出されてからは関流の数学を研究した。極数術、平方零約術(数の平方根の近似分数を求める方法)、円理や方陣の新研究など様々な独創あるいは工夫を編み出した。また枝葉の結果ではあるがオイラー関数やラプラス展開など西洋と同様のものを先駆けて出している。 中根・久留島・松永の三士に学んだ山路主住は、それらの伝を一身に集め、各家の業をまとめて流派たる関流を樹立した。弟子の教育に優れて、優秀な数学者を輩出した。 その弟子有馬頼徸は久留米の藩主でありながら数学に優れ数々の研究を遺している。また、関流の秘術が流派内に秘されて世にひろめられないことを嘆き、『拾璣算法』において点竄術や円理の諸公式など、それまで関流の重要機密であった高等な算法の数々の問題と結果を刊行して世に公表した。 同じく山路の弟子安島直円は、円理の伝授を受けるに先立って円理の新発明をなし、師の山路を甚だ驚かせた。その新発明とは、今でいう積分法の思想を以って円の形を長方形の集まりと考え、円あるいは弧背などの曲線の面積を求める術(計算法)を導き出す方法である。またその方法を用いて、円柱に円柱を貫いた十字の形や、円柱から球を穿ち去った形の体積を求めるというような問題を初めて解き成した。この解法に安島は綴術を重ねて用いる二次綴術(二重積分)を用いる。積分思想と二次綴術と、ここにおいて安島は関孝和以降、円理に第二の革新をもたらしたのであった。さらに彼は、綴術においてある数の数乗根を得る公式を得たり、独自に対数表の作成法を編み出したり、円や角形の接形問題に諸々の結果を得るなど数々の研究を遺した。 世間の数学界では、このころすでに遺題継承の風習は廃れてきていたが、一方、神社や仏閣に数学の問題を載せた額を掲げる、算額奉納の風習が盛んとなり、数学問題の競争は衰えることがなかった。安島の親友であり同じく山路の弟子の藤田貞資(定資とも書く)は教育にすぐれ、問題集『精要算法』を著して世に名を轟かせた。 このころ世間の算術は、遺題継承、算額奉納などによって流行がきわまりながらも、一般でおこなわれる算術は、実用を遠く離れた問題や解く甲斐のない無闇に珍しかったり難しいだけの問題など、その内容の粗さが目立つようになってきた。それを批判したのがこの著で、その凡例に記された「今の算数に用の用あり、無用の用あり、無用の無用あり。」という一言がそれを言い当てている。それぞれ、実用的で有益なもの、実用的でないが有益なもの、何の益にもならないものを言っているが、この書は「無用の無用」を排除するために良問のみを集めたとし、これがひとたび刊行されるや、良質な教科書として、数学者の間で一世を風靡した。 藤田の研究に変商術がある。これは、二つ以上の解(解のことを商という)をもつ方程式において、答えとはならない方の解に意義を与え、その解が答えとなるような問題条件や図形などを示して、問題の変化を探る研究である。 東北の会田安明は、藤田貞資の門に入ろうとしたが、自身が掲げた算額を藤田から批判されたのをきっかけに言い争いを起こして対立し、ついに独自の一派『最上流』(郷土山形の最上川にちなむ。音読みでサイジョウリュウ。主に東北地方で栄えた。)を立ち上げ、関流に対抗した。しかも若い頃の会田は、関流の算法や点竄術を知らずして、独自に天生法という点竄術と同等の術を発明していた。また生涯で二百冊もの伝書(流派用の教科書)や論文を成しており、その遺稿には見るべきものが少なくない。
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