開業からLRT転換まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 17:27 UTC 版)
「富山地方鉄道富山港線」の記事における「開業からLRT転換まで」の解説
元々は富岩鉄道が開業した路線で、その後富山電気鉄道を経て富山地方鉄道富岩線となり、私鉄の戦時買収により国鉄富山港線となった。このような経緯から富山駅で接続する北陸本線(あいの風とやま鉄道線)が交流電化であるのに対し、富山港線は直流電化となっており、七尾線が1991年(平成3年)に直流電化されるまで、長らく北陸地方の国鉄・JR線では唯一のものとなっていた。このため、当時の富山駅には構内に電化方式の境界に設けられる無電区間が北陸本線 - 富山地方鉄道本線間のものと合わせて2か所存在していた。また、富山港線は国鉄に買収された私鉄路線の中では最後に600 Vから1500 Vに昇圧された路線でもあった。 富岩鉄道時代の1934年(昭和9年)10月時点では、朝に増発され、深夜に1時間間隔となるほかは、ほぼ終日30分間隔の運行であった。 買収により南武・鶴見臨港・宇部・伊那などの買収国電や17m省形電車が投入され、1967年(昭和42年)の昇圧まで使用された。 昇圧により72系に代替された。72系は、富山向きのクモハ73形と、岩瀬浜向きのクハ79形の2両編成を運行の基本としていた。したがって当時は72系の廃車後とは逆に、編成の富山方にパンタグラフが搭載されていた。当線用の72系はかつての京浜東北線などと同様、全体がスカイブルー(青22号)に塗られていたが、他区所からの転入があった際、過渡的に茶色(ぶどう色2号)の車両が使用されることもあった。当初に投入された72系は大半が半鋼製車であったが、1970年代に順次全鋼製車に代替されている。末期は5編成計10両が配置されており、朝夕は2編成を連結した4連が2本組成され、おおむね30分間隔で運行されていた。なお、1984年2月1日国鉄ダイヤ改正で最大運用車両数が4連2本から4連・2連各1本に減り、72系2両が廃車されている。配置車のうち1編成は予備車であり、連結を外されて城川原駅の2本の側線に留置されていた。予備車としては昭和50年代半ば頃まで、両運転台のクモハ40形が1両配置されており、富山方と岩瀬浜方の両方向の先頭車として使用されていた。 1985年3月14日国鉄ダイヤ改正で72系は廃車となり、北陸本線で使用される457系・471系・475系などの交直流電車に代替された。JR線時代までを通してすべて線内折り返しの普通列車であった。ちなみに、72系については、富山港線での運用が国鉄の旅客営業列車としての最後の72系の運用となった。 その後に導入された457系・471系・475系は、基本ユニットを構成する3連での運用になった。しかし朝ラッシュ時に使用される2編成のうちの1本は、以前と同等の輸送力を確保するため、富山方にクハ455形が並ぶ変則的な4連となっていた。この運用は後に近郊形である413系の3連に置きかえられたが、最終的にはこのような限定運用はなくなった。そしてJRとしての運営末期にあたる2005年秋からは、記念イベントとして475系の2編成が交直流急行色に塗装され、当線限定で運用されていた。なお、これ以前にも475系導入後、いわゆる北陸色への塗り替えが進むまでの間も、交直流急行色で運行されていた。 475系の導入に際しては、富山駅と富山口駅との間にあった北陸本線との渡り線にデッドセクションが設置された。また城川原駅の車両基地が廃止されたが、朝夕の2編成での運行に備えて一時的に車両を留置するため、富山駅構内に1本の電留線が整備された。この電留線は、奥田駅につながっていた貨物支線の敷地を利用しており、当線が発着していた当時の6番線の北東に位置していた。 JR移管後については、1987年(昭和62年)5月に富山口駅が移転している。これは当時、富山口駅の西側を通っていた県道の地下道化工事に伴うもので、駅周辺の線路が南側に付け替えられ、北陸本線と隣接するようになった。この地下道(東田地方地下道)の完成によって、県道は当線のほか北陸本線と富山地方鉄道本線の計5本の線路の下を通過するようになり、開かずの踏切が解消された。 その後、富山駅の当線専用ホームが南西側に移転しており、単式の6番線から島式の6、7番線に切り替わっている。新しいホームは二編成を収容できるため、それまでの単式ホームのほか、その北東側の電留線も不要になり、これらの敷地は駐車場などに転用された。なお6、7番線はその後、西ホーム(当時の3番線西端の切欠きホーム)が3番線に改称されたことに伴い、7、8番線となった。 富山市中心部や沿線の工場等への通勤・通学路線の役目を担ってきたが、閑散時間帯の合理化のため、2001年(平成13年)からレールバス(キハ120形)を導入して高山本線と共通運用にし、朝と夕方の列車を電車で、昼間と夜の列車をレールバスで運行していた。JR末期にあたる2005年(平成17年)7月時点では、富山 - 岩瀬浜間は朝夕をのぞいておおむね1時間間隔の運転であったが2時間ほど運転間隔が開く時間帯もあった。全20往復(土休日は18本)のうち、475系は朝と夜のみの運用で、日中を中心に10往復がキハ120形の単行での運転となっていた。なお、廃線直前の2006年(平成18年)2月11日からは同線運用の交直流急行色に塗装変更された475系2編成の先頭車の前面に「ありがとう富山港線」と表記されたヘッドマークを掲出し、同年2月25日から最終日の28日までは終日全列車475系で運転された。このヘッドマークは、富山市出身の書家である森大衛が揮毫している。 国土地理院公式サイト内の「地図・空中写真閲覧サービス」では、米軍が1946年(昭和21年)7月に撮影した空中写真(縮尺1/10000)、国土地理院が昭和50年度(1975年度)に撮影した空中写真(縮尺1/8000)および2000年(平成12年)に撮影した空中写真(縮尺1/30000)が、富山市などを含めて公開されている。縮尺や解像度による違いはあるが、貨物線を含む当時の線形の概要を把握できる。
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