72系の運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 23:27 UTC 版)
72系は4扉車体による圧倒的な輸送力・客扱能力を活かし、山手線・京浜東北線や中央線(中央快速線)、城東線・西成線(現:大阪環状線の前身)、片町線(現:学研都市線)、京阪神緩行線など、首都圏・関西圏の通勤路線で1950年代から1970年代初頭まで広く用いられた。またクモハ73形を使用することで最短2両編成でも走行でき、運用上小回りが効いたので、首都圏近郊の電化支線区では2 - 3両編成でも運用された。 だが1957年以降の高度経済成長期に入ると、72系はまず列車密度の高い中央線や、駅間距離の短い山手線等から撤退していく。 輸送力の逼迫した過密路線では、高い加速力と強力なブレーキ力を兼ね備えた高加減速車両を使うことで、列車の運転密度を上げる必要があった。中央線や山手線、大阪環状線のような路線に、72系の走行性能は早期に不適となっていたのである。 72系が新性能車両に比して最も劣る点は、ブレーキであった。新性能電車に搭載された電磁直通ブレーキに比べ、72系の旧式な自動空気ブレーキは反応が遅く操作も難しい。また、モーターを発電機として作動させることでブレーキ力を得る発電ブレーキも装備されておらず、総合的なブレーキ力は新性能車両に比べて相当に劣っていた。 また、吊り掛け駆動方式も不利に働いた。101系以降の新性能電車(カルダン式駆動車)は、高回転モーターと超多段制御器を使うことで低速域から高い加速力を得ていたが、72系の制御器は旧形電車としては段数が多いものの、定格回転が1,000rpmに満たない低回転大出力モーターとの組み合わせでは、高い加速力を得ることは困難であった。しかし、高速走行では142kWの大出力のゆとりを活かす余地もあり、駅間距離の比較的長い京阪神緩行線などでは、限界一杯の100km/h走行を行うこともあった。 主要幹線で遅い時期まで運用された例は、首都圏では1972年の常磐線、京阪神地域では1977年の阪和線や片町線とされる。首都圏の通勤路線で最後まで72系が運用されたのは、1980年の鶴見線であった。72系に限らず、旧形国電の1970年代中期以降における急激な退潮は、車両の老朽化による故障多発と、旧形電車の検査周期が新性能電車に比して3分の1と短く、高コストであることが原因であった。 大都市での用途を失った72系は、1960年代後半以降、新たに電化された御殿場線や房総地区、呉線等に、また17m旧形国電置き換え用として仙石線や可部線に転用された例もあった。この際、一部のクハ79形・サハ78形にはトイレを取り付けた。特異な運用例としては1971年 - 1975年の年末年始に臨時荷物列車 として村上駅 - 大垣駅(東京経由)間という長距離運行を行ったことがある。 1980年以降の末期は、可部線・富山港線の運用が残存したほか、仙石線でアコモデーション改良車が運用されていたが、可部線では1984年、仙石線・富山港線は1985年に撤退し、一般営業から退いた。
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