長崎兵器製作所とは? わかりやすく解説

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長崎兵器製作所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 02:17 UTC 版)

三菱重工業長崎兵器製作所」の記事における「長崎兵器製作所」の解説

第一次世界大戦開戦直後海軍艦政本部長であった村上格一は、友人三菱合資会社顧問武田秀雄民間資本による魚雷製作所開設提案武田三菱社長の岩崎久彌相談し調査結果海軍支援得て三菱による魚雷製作所開設決定した本社による検討結果工場長崎県長崎市茂里町社有地に、発射試験場を魚雷射程周辺水深等を考慮したうえで長与村大村湾沿岸部選定し1916年大正5年7月より長崎造船所の一工場として開設向けて準備始まった1917年大正6年3月10日日本唯一の民間による魚雷研究・生拠点として、長崎造船所より独立する形で長崎兵器製作所が発足した1933年昭和8年以降海軍度重なる増産要求比例する形で工場順次拡張続けられ1942年昭和17年)には市内北部大橋町大工場完成。翌1943年昭和18年)には日本最初にヒドラジン高濃度過酸化水素分解させる液体推薬開発成功した終戦直前1945年昭和20年8月には従業員職員工員17,793名、月間魚雷生産数210本を数えるまでになったが、8月9日長崎市への原子爆弾投下により、施設人員共に甚大な被害受けて生産能力をほぼ喪失し終戦後同年11月15日付で閉鎖された。 1917年大正6年3月10日三菱合資会社長崎兵器製作所発足初代所長に元呉海軍工廠在籍竹村伴吾就任6月7日海軍向け魚雷の製作着手6月10日:長崎兵器製作所設立登記完了資本金120万円10月2日堂崎工場竣工1918年大正7年4月17日:堂崎工場にて生産第一号の発射試験実施7月佐世保海軍工廠魚雷納入1925年大正14年3月23日2代目所長元海大佐千頭一生就任1935年昭和10年12月潜水艦向けの九五魚雷製作開始1937年昭和12年8月7日3代目所長元海大佐田村直文就任1939年昭和14年4月1日田村直文社長病気療養により、所長代理として三菱重工本店佐々木得定就任1940年昭和15年3月5日海軍管理工場指定4月1日4代目所長元海少佐呉海軍工廠水雷部長岸本鹿子治就任1941年昭和16年6月1日建設中大橋工場機械工操業開始1942年昭和17年5月16日大橋工場竣工式挙行1945年昭和20年6月25日5代目所長に登原剛就任8月1日空襲により茂里町工場隣接する長崎製鋼所の間に250キロ爆弾落下外壁一部損傷したのみで人的被害皆無8月9日原爆投下により大橋茂里町工場市立商業学校疎開工場壊滅し生産能力喪失。登原剛蔵所長を含む2,273名が死亡、5,679名が重軽傷を負う。 9月1日:重工本店、長崎兵器製作所に対し長崎兵器製作所の存続は困難として必要最小限人員を除く従業員整理示達10月6日同日付で機械維持警備等に必要な最低限人員を除く全工員解雇残存従業員3,198名。 11月15日:長崎兵器製作所閉鎖同日付で臨時兵器整理事務所設置

※この「長崎兵器製作所」の解説は、「三菱重工業長崎兵器製作所」の解説の一部です。
「長崎兵器製作所」を含む「三菱重工業長崎兵器製作所」の記事については、「三菱重工業長崎兵器製作所」の概要を参照ください。

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