長崎会所の健全化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:56 UTC 版)
長崎貿易を担っていた長崎会所は享保8年(1723年)にはその運上を5万両に定められていた。だが享保18年には3万5000両に減額し、寛保2年(1742年)にはとうとう廃止、以降は借金がかさみ延享3年(1746年)には拝借金21万両にまで膨れ上がった。そのため、勘定所は寛延元年(1748年)から22年間勘定奉行が長崎奉行を兼任することで管理統制を強め、最終的には借金返済、運上金もかつての5万両の3分の1以下だが1万5000両を上納させることに成功した。長崎貿易は俵物の増産が目指され、銀も輸出から輸入へと切り替わった。 なお、一般には田沼意次の積極的な貿易政策で輸出を増やしたといわれているが、鈴木康子の著書「長崎奉行の研究」によると、海舶互市新例で定められた貿易総量を超えて貿易を始めたわけでも、銀を輸入する見返りに銅の輸出量を増加させたわけでもなく、貿易総量に変化はなかったことがわかり、一般に言われているような積極的な貿易政策による輸出増加政策などしていないこともわかる。藤田覚は田沼時代の積極的な貿易政策というこれまでの評価は再考を求められているとしている。
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