長崎代官村上等安
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 15:41 UTC 版)
「村山等安の台湾出兵」の記事における「長崎代官村上等安」の解説
村山等安は1592年(文禄元年)に豊臣秀吉に謁見した後、長崎の町政に大きな影響力を及ぼすようになった。等安の出自は安芸とも尾張とも言われ、その素性は明らかでないが、長崎で外国との交渉面などで活躍を見せ、次第に頭角を現したと考えられている。なお、等安は長崎の有力キリシタンとしても知られていた。 等安は、江戸幕府の発足後も徳川家康の知遇を得て、1604年(慶長9年)には長崎代官となった。代官としての等安は莫大な収入を得ており、朱子学者の林羅山や平戸のイギリス商館長リチャード・コックスは、著書の中で等安を日本有数の大富豪であると紹介している。そして、村山等安は自身の一大事業として、台湾遠征とそれに続く明との勘合貿易復活の計画を練り、実行に移した。
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