重くなる病状――生活への愛着
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「梶井基次郎」の記事における「重くなる病状――生活への愛着」の解説
1930年(昭和5年)正月、肺炎で2週間寝込み、父の一周忌も参加できなかった。しかし蘆花全集の広告文に書かれていた「未だ世に知られざる作家がその焦燥と苦悶の中に書いたものほど人の心を動かすものはない」という一文をなにげなく読んて奮起した基次郎は、自分のことを言っているように思えて襟を正し、病床でゴーリキーの『アルタモノフの一家の事業』や、ヒルファーディングの『金融資本論』などを盛んに読み、前年暮にもレマルクの『西部戦線異状なし』を読了していた。 基次郎は、父が持っていた『安田善次郎伝』に触発され、客観的な社会的小説を書きたいと思うようになるが、それは流行のプロレタリア文学のようなものでも新感覚派でもなく、人々の生活の実態をとらえたものでなければならないという意気込みを見せ、〈「根の深いもの」が今の文壇には欠けている〉と中谷に書き送った。この時期、ディケンズ、メリメ、セルバンテスの『ドン・キホーテ』を何度も読んだ。 2月、貴司山治の『忍術武勇伝』に好感を持ち、後輩の武田麟太郎の『ある除夜』に刺激されて井原西鶴を読み始めた基次郎は、自分が〈小説の本領〉に近づきかけていると感じた。母・ヒサが肺炎になり、大阪赤十字病院に一時入院すると、基次郎はほぼ毎日病院に通い看病し、下旬から3月初旬に自分自身も発熱や呼吸困難で寝込んだ。3月中旬に母が再び腎臓炎で入院。姉を呼んで自分もタクシーで母の看護に通い、病院から「闇の絵巻」「のんきな患者」の構想を北川冬彦に手紙で知らせた。 4月下旬に母が無事退院し自宅療養となった。基次郎は痔疾に悩まされた。5月、草稿「猫」から「愛撫」を書き上げた。弟・勇が近所の馴染みの娘・永山豊子と結婚したため、基次郎は母と末弟・良吉と共に兵庫県川辺郡伊丹町堀越町26(現・伊丹市清水町2丁目)の兄・謙一の家に移住した。その後、母と良吉は大阪市住吉区の家に戻り、基次郎だけ伊丹町に残った。 6月、「愛撫」が北川冬彦と三好達治、淀野隆三らの同人誌『詩・現実』創刊号に発表された。この作品は友人間で評判が良く、川端康成も雑誌『作品』7月号の作品評欄で取り上げ、「気品」さを賞揚した。7月、発熱が続いたため大阪の実家に戻り、診察してもらうと胃炎になっていた。8月、宇野千代が尾崎士郎と正式離婚し、その後千代は東郷青児と再婚した。結婚通知の葉書を受け取った基次郎は、「しようもない奴と結婚しやがって」と吐き捨てるように言ったのを弟嫁・豊子が聞いた。 同8月に「闇の絵巻」を書き上げ、9月初めに伊丹の兄の家に戻った。「闇の絵巻」が『詩・現実』第2冊に掲載され、川端が『読売新聞』の文芸時評でその作品を取り上げ、その「澄んだ心境」を賞揚した。 9月下旬、兄一家が川辺郡稲野村大字千僧小字池ノ上(現・伊丹市千僧池西)に転居し、基次郎もその離れ家(8畳と6畳部屋)に落ちついた。そこは人里離れた土地で家賃も安く、エンジニアの兄の仕事の無線交信実験に適した場所であった。兄の子供らは基次郎になついて、ついつい離れ家に遊びに行った。その後、この家に母と末弟・良吉も同居するようになり、母は基次郎の面倒を見た。 10月、基次郎は後輩の淀野隆三に宛て、〈生活に対する愛着〉を説き、淀野の使用する観念的な言葉遣いを批判的に指摘した。また、辻野久憲が自然主義や私小説の行き詰まりを論じたことを〈紋切型〉だとして反対し、ルソーの『告白録』に連なる島崎藤村の懺悔の系譜、西欧のリアリズムの客観的手法、俳諧写生文の系譜などを考えずに〈一様に〉混同することに異議を唱え、〈自分の経験したことを表現する文学の正道〉を説いた。 夏 弱つたのは胃のためだ。暑気と解熱剤の連用のため胃が働らかなくなつたのだ。大分痩せた。どうもだんだん痩せるやうだ。若し身体が続けば、この秋中に小説を書くつもりだ。題材は天下茶屋の生活。僕のその日暮しの生活をそのまゝ書いて見たく思つてゐる。 — 梶井基次郎「中谷孝雄宛て」(昭和5年10月6日付) 11月、次号の『詩・現実』第3冊に発表する作品原稿が挫折した。この頃、草稿「琴を持つた乞食と舞踏人形」「海」が書かれたと推定されている。12月、『詩・現実』第3冊には「冬の日」が再掲載。見舞いに来た淀野隆三に、「交尾」(その一、その二)の原稿を見せて渡した。基次郎は淀野と近所を散歩中、「東京の横光はどうや?」と質問し、勢いのあった横光利一をライバル視していた。 12月下旬、母が阿倍野の小間物屋(勇の嫁・豊子に任せていた)を手伝うために帰ったため、基次郎は寒い冬を万年床で過ごした。この頃に草稿「温泉」が書かれたと推定されている。野菜や肉など食事は十分に摂り、友人らが手土産に持ってくるいたチーズやバターも食べていた基次郎だったが、身体は随分やせてきていた。北野中学時代からの友人や、元『青空』同人らは、みな社会人となり妻帯していた。結核持ちの基次郎だけが取り残された。
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