都市計画をまとめる
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江戸時代の桑名藩の文化で大正時代の富田富洲原色が強い富洲原東洋町・西元町・富田北村町の旧町名の地域文化が戦後の都市開発の弊害になると思考していた。1966年(昭和41年)5月に住居表示制度を導入して、富田地区の町名などを以下のように変更した。 富田西町・富田南町・富田中町から富田一丁目・富田二丁目・富田三丁目・富田四丁目に変更する。 九鬼市長個人が四日市ぜんそく患者が多い磯津漁民と四日市公害問題で激しい対立をしていた。磯津漁民との激しい対立から大字塩浜の住所表示にして磯津の地名を使用する事を禁止にする方針にした。四日市公害問題の対立から磯津地区の地名使用禁止の大字塩浜の住所変更で磯津住民に対して厳しい処分にした。 旧町名から変更する新しい住所制度を導入して、通称による名称から区画による住所とする四日市市の都市制度の大規模改革を実施した。 平田前市長が公災害対策の抜本的解決策の検討を委託した都市計画協議会の最終報告書は、九鬼市政下の1966年(昭和41年)8月に「四日市の公害対策のための都市計画報告書」としてまとまる。九鬼市長による「都市公害対策マスタープラン」である。このマスタープランによって打ち出された四日市都市改造計画だった。九鬼市長の都市計画では高花平団地・笹川団地など南部の住宅団地への集団移転計画があった。塩浜工業地域住民の四日市公害対策としての集団移転を計画していた。四日市市の人口倍増計画として立案されたのが桜台団地・暁学園平津朝明方面を新興住宅地域として整備する内容であった。名古屋圏の住民誘致と四日市西部の田舎の農村を住宅団地として不動産開発をする内容であった。四日市市南部の住宅団地への集団移転計画と四日市市西部の農村を不動産開発する政策が戦後の四日市市の都市計画だった。 「四日市は重化学工業に特化した工業都市として発展していき、今後も四日市市の石油化学産業が発展していくと考えられる。しかし、産業の発展が公害による四日市市民の生活に犠牲の上に成立する現在の状態は根本的に改善されるべきであって石油化学産業と拡大と四日市市民の生活が両立する都市としなければならない」 との理念が発案された。九鬼は基本方針として、 「四日市を重工業と石油化学工業を一大中心として発展させるために公害は不可避であって、塩浜地区の雨池町・平和町など郊外の団地への集団移転を進めて、塩浜地区など工業地帯と隣接する公害発生地区の住民は公害がない新しい住宅地域への集団移転をして、公害発生地域は工業関係用地とする」 とした。マスタープランでは、四日市市域を名四国道に沿った南北線と、亜硫酸ガスの濃度による公害限界線によって以下の工業地域と住宅地域に区分していた。 公害発生源を含む重化学工業の立地できる「重化学工業地域」は、今後の四日市市の工業の中心地帯と九鬼は思考した。これらの石油化学工業から現状程度までの公害原因と被害はやむをえないとする。東名阪自動車道・名四国道との連絡などの交通整備をして、危険防止のために防災緑地帯を大幅に導入する。北部海面の埋立地へ進出する工場は、公害発生源を含まないように十分配慮をする。伊勢湾全体の港湾計画とも調整した上で、大規模な商港を設置する。この地域に介在する住宅については、極力地域外への転出を図る。 ある程度公害の及ぶ「公害影響地域」は、中部地区などの中心市街地を想定しているが、住居の大部分はこの地域の外側の公害の及ばない地域に移転をさせる。比較的工場地帯に隣接しているところは特別工業地区に指定して、主に公害を発生しない軽工業、倉庫業などの用地とする。 公害の及ばない「新住宅市街地域」は、1と2の地区からの移転人口と今後急増する人口を収容する。このうち新たな流入してくる人口約12万人と、既成市街地からの移転人口約6万人を合計した18万人を収容する新市街地を創設する。そのために、公共施設の整備による空き率の引き上げ、新しい公害のない工業の大幅な導入を図る。新市街は四日市都心からの40分以内と想定して、市北部の三岐鉄道沿線に約3万人、市中部の近鉄湯の山線沿線に約10万人、市南部の近鉄八王子線沿線に約4万人、内部川上流の丘陵地に約1万人を収容する計画を立てて、3つに地域区分して土地利用計画を構想した。 既成市街地の改造に約200億円、新市街地の建設事業に約800億円の約1000億円を、2期10年で実施する計画であった。九鬼は都市改造計画として以下の公害からの集団移転を計画した。 塩浜地区の都市整理事業を実施して泊山地区への住宅を移転する。 午起石油化学第2コンビナート(四日市コンビナート)に隣接する午起町および高浜町の住宅の泊山地区・御館地区への住宅移転が必要であるとした。 平田市長からの懸案であった四日市港の港湾整備計画と工業用地の造成計画を就任後にまとまる。四日市市と三重県は日本港湾コンサルト協会に計画を委託し、四日市地区に大型船が接岸できる3つの埠頭と石炭埠頭・物置き場などの港湾施設を建設、塩浜航路・四日市航路・朝明航路および泊地を12mから17mの深さにする計画を立てた。四日市工業地帯は公害問題の処理という大きな課題をかかえているが、立地条件の優位性から霞ヶ浦・富田地域を埋め立て石油化学コンビナートとする計画を立てた。石油化学コンビナートに市民や市議会の反発が強かったため、公害防止の観点から埋め立て計画へと変更し、地続きではなく、神戸港の人工島であるポートアイランドを参考にした出島方式とした。また、九鬼は霞ヶ浦緑地公園を造成することとした。
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