都市計画の策定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 05:20 UTC 版)
「パトリック・アバークロンビー」の記事における「都市計画の策定」の解説
1920年には、政府の要請によって炭鉱都市であるドンカスターの地域計画を作成し、1922年には正式決定する。その後プリマス、キングストン・アポン・ハル、バース、エディンバラ、およびボーンマスといったイギリス主要都市の都市再計画を立案していく。 1925年には、その設立に尽力したイギリス都市計画・地域計画学会(英語版); 略称CPRE) 名誉会長をつとめる。その間、レバー卿の意向もあって、特にイギリス海外の統治地、植民地、入植地の都市コンサルタント業務を積極的に引き受け、1930年には教え子の一人クリフォード・ホリディらとともに、ハイファ計画などを立案する。 1935年にロンドン大学に移籍し、1946年まで都市計画学教授に就任する。 1937年から1940年にかけて、大都市のあり方を調査報告するバーロウ(ジャックナイフ)委員会の委員長にロイヤル・コミッションから任命され、バーロウレポート作成に協力するとともに、政府の依頼を受け、人口300万人規模の都市計画、カウンティー・オブ・ロンドンプラン(1943年)と、一般に「アーバークロンビー・プラン」と呼ばれるグレーターロンドン大都市圏計画(1944年)を提案する。後者は1943年の公表より拡張していて、徹底的な検討を加え、自身の意図や理想を取り込んだ実践的案で、自身の都市計画分野50年間の経験と蓄積集大成でもあり、現在でも、ロンドンの都市計画を語るとき頻繁に引用を受けている。このプランで提案させているもののうち、ニュータウンはインナーシティ問題もひきおこし、ドックランド計画につながることになる。ほかグリーンベルトは、同時に立案した土地利用計画が厳格に守られているという。 1940年、スリランカ・セイロン大学キャンパスを設計を手がける。
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