連邦禁酒法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 14:40 UTC 版)
「アメリカ合衆国における禁酒法」の記事における「連邦禁酒法」の解説
詳細は「アメリカ合衆国憲法修正第18条」および「ボルステッド法」を参照 1916年アメリカ合衆国大統領選挙では、民主党の現職ウッドロウ・ウィルソンと、対する共和党チャールズ・エヴァンズ・ヒューズの双方とも禁酒法問題に関わろうとしなかった。民主党・共和党両党共に「ドライ」・「ウェット」両派閥があり、接戦となった選挙ではどちらの候補も彼らの支持者を失うことを嫌い関わろうとしなかったのである。 1917年1月に65回目の議会が招集された。「ドライ」は民主党で140対64、共和党で138対62と、それぞれ「ウェット」より多かった。第一次世界大戦においてアメリカは4月に帝政ドイツに 宣戦布告したことで、反禁酒法の主要勢力であるドイツ系アメリカ人は多くの地域で発言力を失い、抗議活動も無視された。 アメリカにおける大手ビール製造会社の殆どがドイツ系(アンハイザー・ブッシュ、クアーズ、ミラー、それにシュリッツなど)だったせいもあり「ビール=ドイツ=悪」という、単純かつ悪意の満ちたイメージがまかり通るようになり、禁酒派を大いに勢いづかせる事となってしまった。また、アルコール業界内でも、ビール業界がウィスキーを諸悪の根源だと決め付け、規制から逃れようとするなど、内部での足の引っ張り合いが横行しており、「アルコール業界」として統一した動きが取れなかった。 1917年2月に、米国全土で禁酒法を達成するための憲法修正決議が、アメリカ合衆国議会に提出され両院を通過した。1919年1月16日には修正決議は48の州の内36州で批准され、同年10月28日のボルステッド法によって「酔いをもたらす飲料」が定義され、0.5%以上アルコールを含有しているものが法規制対象となった。1920年1月16日に修正第18条が施行され、禁酒法時代が始まった。合計1,520名の連邦禁酒法捜査官(警察)が任務に就いた。 禁酒法は「高貴な実験(The Noble Experiment)」 とも言われ、様々な立場から広い支持を受けた一方で、論争の的になる事も多かった。革新派と、一般に女性、南部人、農村地帯の人々の暮らしとアフリカ系アメリカ人、クー・クラックス・クラン(KKK)までもそれが社会を改善すると信じて支持した。ウィル・ロジャースは「南部はドライ(禁酒主義)で、ドライ(禁酒法の賛成)に投票するだろう。皆しらふすぎて投票所にふらふらと立ち寄っちまうだろう」と、しばしば南部の禁酒主義者の冗談を言った。 改正法の支持者らが、改正法案が撤廃されない事を確信するようになり、法案の考案者の一人でもあるアメリカ合衆国上院議員モーリス・シェパードは、冗談交じりで「憲法修正第18条撤廃の確率は、ハチドリが尾っぽにワシントン・モニュメントをくくりつけながら飛んで火星に着いてしまうほどの確率さ」とまで語った。 一方で、ポーリーン・サビン(英語版)が1929年に発足させた「禁酒法改正全国婦人団体」(Women's Organization for National Prohibition Reform、略してWONPR)のような禁酒法に反対する女性団体なども存在した。 また当時、アルコールは治療目的のために医師によって広く処方されていて、禁酒法の問題は医療従事者の間で論争の一つとなった。議会は1921年にビールの薬としての効能についての公聴会を開いた。禁酒法は薬用酒にも適用されたので、その後、米国中の医師は禁酒法撤廃を求めて、ロビー活動を行った。 禁酒法が施行されると、アルコールの製造、販売と輸送は違法となった。だが、ニューヨーク市を例に取っても1万5千もの酒場が、禁酒法以降は3万2千もの「もぐり酒場」を生む事になり、酒が飲まれた量も、禁酒法以前の10パーセントも増加している。飲酒運転の摘発も、禁酒法施行後(1920年)の1年間に比べ、1927年には467パーセントの増加になっている。 しかし、ボルステッド法第29節では、1年につき最高200ガロン(750リットル)の「酔わない程度の」ワインとリンゴ酒が国内の果物で作ることが許可され、自身の家庭で使用するブドウを栽培するブドウ園があった。また、禁酒法は実はアルコールの摂取そのものは禁止しておらず、駆け込み需要でアルコールの販売が違法になる1920年1月16日よりも前、1919年の後半に、多くの人が今後の飲用のためにワインと酒を買い溜めした。また医師の処方箋を貰う事で、酒が手に入る状態だった。 さらに、エタノールが含まれている医薬品も薬局で購入できた。特に「ジャマイカジンジャー」(通称:Jake)と呼ばれるショウガ風味の薬が貧困層を中心に人気を博したが、製造メーカーが混入させた可塑剤のリン酸トリクレジル(特にオルト体)による手足の麻痺が多発し、「Jamaica ginger paralysis」「jake paralysis」と呼ばれる社会問題に発展した。今日では、リン酸トリクレジルは神経毒性を持つオルト体を含まないものが製造・使用されている。 また当然この法律は、アメリカ国外では何の影響も持たないどころか、多くのアメリカ人が、アルコール飲料を飲むために国境を越えるようになった。そのためカナダ、メキシコ、それにキューバなどのカリブ海の蒸留所と醸造所は大いに栄えた。そして狂騒の20年代として知られている1920年代には、それらの国からアメリカ合衆国に不法に輸入されるようになり、特にシカゴ市のように、禁酒法をごまかす者のための避難所として有名になった地域もあった。 アル・カポネとその敵対者バグズ・モランなど、シカゴ市の最も悪名高いギャングの多くは、違法なアルコールの売り上げを通して、何百万米ドルもの大金を稼いだ。窃盗や殺人を含む犯罪の多くは、シカゴや、その他の禁酒法に関係する犯罪と関わっていた(ギャングの平均寿命が禁酒法施行前は55歳だったが、施行後には38歳にまで下がった。連邦捜査局の禁酒局捜査官も、ギャングとの銃撃戦で500名もの殉職者を生み、市民やギャングも、2千人以上が死亡したと言われている)。 レストランでは監視官の目を欺くために、コーヒー(ティー)カップでワインを出す所もあった。
※この「連邦禁酒法」の解説は、「アメリカ合衆国における禁酒法」の解説の一部です。
「連邦禁酒法」を含む「アメリカ合衆国における禁酒法」の記事については、「アメリカ合衆国における禁酒法」の概要を参照ください。
- 連邦禁酒法のページへのリンク