造園教育の歴史とは? わかりやすく解説

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造園教育の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 09:12 UTC 版)

造園」の記事における「造園教育の歴史」の解説

造園学」および「緑地学」も参照 記録にある中で日本最初造園学校とされているのが、奈良時代行基によって遠江国現在の静岡県井伊谷開基された臨済宗妙心寺派寺院龍潭寺にあった禅宗大学寮園頭科(えんずか)で、さらに学僧実習として作庭した庭などが現存している。 造園教育・学術が造園学として発祥したのは日本では明治時代である。そして造園教育機関担ったのは、次々設立され農学校園芸学校である。 1886(明治19)年に駒場農学校西ヶ原東京山林学校合併し東京農林学校(東京大学農学部前身)が創設されていたが、1908(明治41)年には東京府立園芸学校(東京都立園芸高等学校前身)、また奈良女子高等師範学校(奈良女子大学前身)に園芸科目設置されている。1909(明治42)年には千葉県立園芸専門学校(現在の千葉大学園芸学部)が創設されている。初代校長である鏡保之助翌年から「築庭理論」の名称の講義開始されているが、後の1913(大正2)年には正式科目として、本郷高徳東京帝国大学から転任し担当することになる。 当初福羽逸人などの園芸家造園与えた影響強かった福羽逸人(18561921)は当時勧農局試験場三田育種場詰をへて植物御苑(のちの新宿御苑)に入り定年まで奉職するその間1890明治23)年より東京農林学校講師となり、日本初めて「風致園芸」の名で造園学講じた。「園芸区域論ず」と題する講演筆記では、園芸分野画し、そこに造庭術と観賞植物栽培とを含めていった。1903(明治36)年には、新宿御苑園芸見習生のための講義録園芸論』で、特にフランスの影響強く受けた造園論を展開している。 造園学続いて林学影響与える。1903(明治36)年、日比谷公園林学専門家だった本多静六本郷高徳らが設計する本多らは続いて明治神宮造営にも参加した。これ以降農学大学教育においては園芸系と林学系において造園教育が行われるようになる。 本多静六(1866〜1952)は農科大学のさらに前身東京山林学校卒業後、ミュンヘン大学留学ドイツ林学影響強く受けて帰国し東京帝国大学教授就任ほどなくして日比谷公園設計にあたり林学造園泰斗として大い活躍する。1914(大正3)年には帝国大学で「景園学」の名で造園学講義するに至る。造園学とは「庭園公園森林公園其他風景美を旨とする地物に対して風景美を構成し、又はこれを助長する理論と方法とを講究する学なり」と講じたその後造園学講義は、1919(大正8)年9月には改めて正式科目として開かれることとなる。この講義は福羽の後継者である園芸学講座の原熈教授と、林学第二講座本多教授両名受け持ったその後、原の担当パート丹羽鼎三担当する本多パート本多総論田村剛東洋庭園史本郷高徳西洋庭園史担当し総論はのちに森脇福雄が担当さらには池ノ上容国立公園風景計画太田謙吉公共緑地学千葉県園芸から小寺駿吉出講して特論担当している。東京府立園芸学校では1913(大正2)年から、野間守人講義担当している。 関西では、1888年9月大阪堺区車之町大阪府立農学校設立1909年3月には園芸科新設される。1917(大正6)年には教諭として、のちに「甲子園花苑都市」、「藤井寺花苑都市構想手がける大屋霊城赴任する1924年には園芸科分離し豊能郡立農商学校と合併して大阪府立園芸学校現大阪府園芸高等学校)になる。この学校には1944年園芸科農芸化学科の2科をもつ大阪農業専門学校大阪府立大学生命環境科学域前身校の1つ)を併設する大屋霊城1890〜1934)は1915(大正4)年東京帝国大学農科大学農学科卒業大阪府公園設置委員会委員大阪府技師都市計画地方委員会技師歴任大正期から昭和初期にかけておもに関西を拠点造園設計造園教育携わるgardencity(田園都市)を花苑都市訳し専ら都市にある緑空間必要性世に説いていった。 建築教室では東京帝国大学で1918(大正7)年ごろに「庭園学」として講義始まり初期伊東忠太大江新太郎担当し、後には農学部林学教室田村剛担当している。建築ではジョサイア・コンドル1893(明治26)年に博文館出版から日本庭園に関する書物Landscape Gardening in Japan』を刊行し世界中紹介しているが、上原敬二によると、1902年ごろには特別講義のような形式コンドル担当していたようである。ちなみに不採用だったが本多静六前に日比谷公園設計担当したコンドル弟子辰野金吾は、自分教え子古宇田實西洋庭園の、また天沼俊一日本庭園研究勧めている。『フレッチャア建築史』(1919年岩波書店)の翻訳者として知られる宇田は、日本人建築家として最初に庭園研究着手した人物指摘され、後にまとめた『建築と関係深き庭園』(1933年日本建築学会パンフレット)で主に洋風庭園多く取り上げ、名庭園建築事例として空間構成解説している。古宇田大学院修了後1905年から東京美術学校(現東京芸術大学)で庭園に関する教鞭をとり、のちには吉田五十八担当する吉田日本庭園好みは石を嫌い、大和絵のような庭を好んだとされる天沼はのちに武田五一よばれた京都帝国大学では建築史担当し石灯篭研究名を馳せることになる。そのほか建築学界からは武田五一茶室の、保岡勝也茶庭の、佐藤功一今和次郎谷口吉郎堀口捨巳吉田鉄郎庭園研究行っているほか、西沢文隆1970年から日本各地庭園実測開始し、庭と建築が一体として表現され実測図多く残す。それらを透け空間密な空間、歩く庭、庭と呼ばれない庭の4種分類している。 また、東京帝国大学農科大学林学実科では1919(大正8)年から田村剛、1922(大正11)年からは永見健一造園講義担当する。 1922(大正11)年には九州帝国大学林学科設置され東京帝国大学林学教室から土井藤平転任し、「造園学」を講義した。1926(大正15)年からは永見健一転任し引き継ぐ。 1923(大正12)年に関東大震災見舞われたことから、帝都復興計画に関わった上原敬二公共造園重要性感じ造園技術者の養成急務であるとして、震災翌年渋谷常磐松東京農業大学キャンパス一角借りて東京高等造園学校(現在の東京農業大学地域環境科学部造園科学科〉を設立し、自ら校長となる。上原は『造園学汎論』を出版し造園学体系化目指した。 1924(大正13)年には京都帝国大学林学科にも造園学講座開講し東京帝国大学から関口鍈太郎転任、同じ年三高等農林学校(後の三重大学農学部)は丹羽鼎三転任する。1936(昭和11)年に大阪府技師森一雄造園に関する授業嘱託される。 昭和期には、1941(昭和16)年には前述東京府立園芸学校造園科設立されている。 第二次世界大戦後1960(昭和35)年以降各地農業高等学校造園科開設され大学農学部にも次第造園コース/造園学講座専攻を持つところが増加しまた、専門学校職業訓練校(現、職業能力開発校)でも造園科設けているところが多くなっていった。さらに近年では芸術・工学関係の大学学部などでも造園学教え学科を持つようになり、広く環境考えるという視点から教育が行われている。

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「造園教育の歴史」を含む「造園」の記事については、「造園」の概要を参照ください。

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