造園教育の歴史
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「造園学」および「緑地学」も参照 記録にある中で日本で最初の造園学校とされているのが、奈良時代に行基によって遠江国、現在の静岡県井伊谷に開基された臨済宗妙心寺派寺院の龍潭寺にあった禅宗の大学寮園頭科(えんずか)で、さらに学僧が実習として作庭した庭などが現存している。 造園の教育・学術が造園学として発祥したのは日本では明治時代である。そして造園教育機関を担ったのは、次々に設立された農学校、園芸学校である。 1886(明治19)年に駒場農学校と西ヶ原の東京山林学校が合併し東京農林学校(東京大学農学部の前身)が創設されていたが、1908(明治41)年には東京府立園芸学校(東京都立園芸高等学校の前身)、また奈良女子高等師範学校(奈良女子大学の前身)に園芸の科目が設置されている。1909(明治42)年には千葉県立園芸専門学校(現在の千葉大学園芸学部)が創設されている。初代校長である鏡保之助が翌年から「築庭理論」の名称の講義が開始されているが、後の1913(大正2)年には正式科目として、本郷高徳が東京帝国大学から転任して担当することになる。 当初は福羽逸人などの園芸家が造園に与えた影響が強かった。福羽逸人(1856〜1921)は当時の勧農局試験場、三田育種場詰をへて植物御苑(のちの新宿御苑)に入り、定年まで奉職する。その間、1890(明治23)年より東京農林学校講師となり、日本で初めて「風致園芸」の名で造園学を講じた。「園芸の区域を論ず」と題する講演筆記では、園芸の分野を画し、そこに造庭術と観賞植物栽培とを含めていった。1903(明治36)年には、新宿御苑の園芸見習生のための講義録『園芸論』で、特にフランスの影響を強く受けた造園論を展開している。 造園学は続いて、林学が影響を与える。1903(明治36)年、日比谷公園を林学の専門家だった本多静六、本郷高徳らが設計する。本多らは続いて明治神宮の造営にも参加した。これ以降、農学系大学教育においては園芸系と林学系において造園教育が行われるようになる。 本多静六(1866〜1952)は農科大学のさらに前身の東京山林学校を卒業後、ミュンヘン大学に留学。ドイツの林学の影響を強く受けて帰国し、東京帝国大学教授に就任、ほどなくして日比谷公園の設計にあたり、林学系造園の泰斗として大いに活躍する。1914(大正3)年には帝国大学で「景園学」の名で造園学を講義するに至る。造園学とは「庭園、公園、森林公園其他風景美を旨とする地物に対して其風景美を構成し、又はこれを助長する理論と方法とを講究する学なり」と講じた。その後造園学の講義は、1919(大正8)年9月には改めて正式科目として開かれることとなる。この講義は福羽の後継者である園芸学講座の原熈教授と、林学第二講座の本多教授の両名が受け持った。その後、原の担当パートは丹羽鼎三が担当する。本多のパートは本多が総論、田村剛が東洋庭園史、本郷高徳が西洋庭園史を担当し、総論はのちに森脇福雄が担当、さらには池ノ上容が国立公園と風景計画、太田謙吉が公共緑地学、千葉県立園芸から小寺駿吉が出講して特論を担当している。東京府立園芸学校では1913(大正2)年から、野間守人が講義を担当している。 関西では、1888年9月大阪堺区車之町に大阪府立農学校が設立。1909年3月には園芸科が新設される。1917(大正6)年には教諭として、のちに「甲子園花苑都市」、「藤井寺花苑都市」構想を手がける大屋霊城が赴任する。1924年には園芸科は分離し、豊能郡立農商学校と合併して大阪府立園芸学校(現大阪府立園芸高等学校)になる。この学校には1944年、園芸科、農芸化学科の2科をもつ大阪農業専門学校(大阪府立大学生命環境科学域の前身校の1つ)を併設する。大屋霊城(1890〜1934)は1915(大正4)年東京帝国大学農科大学農学科卒業。大阪府の公園設置委員会委員や大阪府技師、都市計画地方委員会技師を歴任。大正期から昭和初期にかけておもに関西を拠点に造園設計、造園教育に携わる。gardencity(田園都市)を花苑都市と訳し、専ら都市にある緑空間の必要性を世に説いていった。 建築教室では東京帝国大学で1918(大正7)年ごろに「庭園学」として講義が始まり、初期は伊東忠太と大江新太郎が担当し、後には農学部林学教室の田村剛が担当している。建築ではジョサイア・コンドルが1893(明治26)年に博文館出版から日本庭園に関する書物「Landscape Gardening in Japan』を刊行し、世界中に紹介しているが、上原敬二によると、1902年ごろには特別講義のような形式でコンドルが担当していたようである。ちなみに不採用だったが本多静六の前に日比谷公園の設計を担当したコンドルの弟子辰野金吾は、自分の教え子の古宇田實に西洋庭園の、また天沼俊一に日本庭園の研究を勧めている。『フレッチャア建築史』(1919年、岩波書店)の翻訳者として知られる古宇田は、日本人建築家として最初に庭園の研究に着手した人物と指摘され、後にまとめた『建築と関係深き庭園』(1933年、日本建築学会パンフレット)で主に洋風庭園を多く取り上げ、名庭園と建築を事例として空間構成を解説している。古宇田は大学院修了後1905年から東京美術学校(現東京芸術大学)で庭園に関する教鞭をとり、のちには吉田五十八が担当する。吉田の日本庭園の好みは石を嫌い、大和絵のような庭を好んだとされる。天沼はのちに武田五一によばれた京都帝国大学では建築史を担当し、石灯篭の研究で名を馳せることになる。そのほかの建築学界からは武田五一が茶室の、保岡勝也が茶庭の、佐藤功一、今和次郎、谷口吉郎、堀口捨巳、吉田鉄郎が庭園の研究を行っているほか、西沢文隆は1970年から日本各地の庭園の実測を開始し、庭と建築が一体として表現された実測図を多く残す。それらを透けた空間、密な空間、歩く庭、庭と呼ばれない庭の4種に分類している。 また、東京帝国大学の農科大学林学実科では1919(大正8)年から田村剛、1922(大正11)年からは永見健一が造園の講義を担当する。 1922(大正11)年には九州帝国大学に林学科が設置され、東京帝国大学の林学教室から土井藤平が転任し、「造園学」を講義した。1926(大正15)年からは永見健一が転任して引き継ぐ。 1923(大正12)年に関東大震災に見舞われたことから、帝都の復興計画に関わった上原敬二は公共造園の重要性を感じ、造園技術者の養成が急務であるとして、震災の翌年に渋谷・常磐松の東京農業大学のキャンパスの一角を借りて東京高等造園学校(現在の東京農業大学地域環境科学部造園科学科〉を設立し、自ら校長となる。上原は『造園学汎論』を出版し造園学の体系化を目指した。 1924(大正13)年には京都帝国大学の林学科にも造園学講座が開講し、東京帝国大学から関口鍈太郎が転任、同じ年三重高等農林学校(後の三重大学農学部)は丹羽鼎三が転任する。1936(昭和11)年に大阪府技師の森一雄が造園に関する授業を嘱託される。 昭和期には、1941(昭和16)年には前述の東京府立園芸学校に造園科が設立されている。 第二次世界大戦後、1960(昭和35)年以降、各地の農業高等学校に造園科が開設され、大学農学部にも次第に造園コース/造園学講座・専攻を持つところが増加し、また、専門学校や職業訓練校(現、職業能力開発校)でも造園科を設けているところが多くなっていった。さらに近年では芸術・工学関係の大学・学部などでも造園学を教える学科を持つようになり、広く環境を考えるという視点から教育が行われている。
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