造大輪田船瀬使
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 21:46 UTC 版)
平安時代には、『日本後紀』の弘仁3年(812年)6月条に大輪田泊修築のことが記されるのをはじめ、造大輪田船瀬使がおかれ、防風と防波を兼ねて石の堤(石椋)を築くなど、たえず修築がおこなわれ、その経費を充当するため勝載料もしくは船瀬庄田稲を徴収していたことのあったことが各種の文献資料で確認されている。とくに、泊の西方向には和田岬があって西風の波浪には安全であったが、南東方向は海にひらけており南東風のため諸船がしばしば難破した。そこで国費で船瀬(船だまり)をつくって修理が加えられたが、律令国家の衰えとともに修築はおこなわれなくなり、放置されるようになった。
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